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恋に憧れ  作者: 一雲一人


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12/15

第12話 合理的な思考

翌朝。土曜日。

私はいつものように午前七時五十二分に店へ到着し、開口一番に換気と清掃に取りかかっていた。

土日祝日の営業時間は変わらず午前九時から午後七時までだが、平日に比べてお客様の出入りは多くなる。準備にも余念がない。

午前八時五分。

シャッターを半分ほど上げ、外の空気を吸い込んだところで、私の思考はふと昨夜の出来事へと脱線した。

(……よくよく考えると、おかしな話だ)

昨夜、息を切らして閉店ギリギリに駆け込んできた大神正巳さん。

彼の勤務先は土日祝日が休みの会社のはずだ。

もし今日が休日なのであれば、昨夜わざわざ仕事帰りに走ってまで閉店数分前に滑り込む必要性は薄い。

睡眠時間の確保や疲労回復の観点から見ても、昨夜は直帰し、今日じっくりと来店する方が明らかに効率的であり、合理的である。

「……不可解だな」

おそらく、今日、明日と何か予定があるのだろう。それなら金曜のうちに本を確保しておきたかった、という推論も一応は成り立つ。

私が小さく首を傾げた、まさにその時だった。

ガラガラ、と音がして、半分閉まっていたシャッターが軽く押し上げられた。下から靴が見え、誰かが腰を屈めて店に入ってくる。

時計を見ると、午前八時五十九分。開店一分前だ。

「おはようございます、薄鉢さん」

そこに立っていたのは、昨夜とはまるで違う印象の男だった。

スーツ姿ではなく、上質なネイビーのニットにスラックスという、爽やかで落ち着いた私服姿。

大神さんだった。

ほのかに柑橘系の優しい香りがする。

「……大神さん。おはようございます。早いですね」

「ええ。今日は休みなので、朝一番に来ようと思って」

爽やかな笑顔を浮かべる大神さんを見つめながら、私は昨夜からの疑問をそのまま口にしてみることにした。

「大神さん。一つ疑問があるのですが、質問してもよろしいでしょうか」

「ん? なんですか?」

「今日がお休みで、朝一番にお越しになれるのでしたら……なぜ昨夜、あそこまで息を切らして駆け込まれたのですか? 今日ゆっくりお越しになる方が、体力的な消耗も抑えられたと思うのですが」

私の至極真面目な問いかけに、大神さんは一瞬ハッとしたように目を見張り、それから少し照れくさそうに苦笑した。

「……あはは。確かに、論理的に考えたらそうですよね」

大神さんはレジカウンターに少し近づき、昨夜よりもどこか柔らかい、けれど真っ直ぐな視線を私に向けた。

「でも、一刻も早く来たくて。それに、昨夜来たら今日来ちゃいけないなんてルールもないでしょう? だから、朝もまた来ちゃいました」

一刻も早く本を買い、感想を語りたい。

その情熱ゆえの行動だったのか。

「なるほど……。睡眠や休息という生理的欲求よりも、読書への探求心が勝ったということですね。本屋として、それほどの情熱をお持ちいただけるのは実に光栄なことです」

私が感心して頷くと、大神さんは「(あはは、本の話だけじゃないんだけどな……)」と言いたげに肩をすくめ、降参したように笑った。

「本当、薄鉢さんの前だとどんな動機もロジックに解体されちゃいますね。……まあ、いいです。そういうところも面白いですから」

そう言って大神さんが文芸コーナーへ歩き出そうとした、その時だった。

チリン、とドアの鈴が鳴った。

「おはようございます」

入口に立っていたのは、高瀬さんだった。

いつも通りの少し控えめな装いだが、その目は真っ直ぐに店内をとらえている。

高瀬さんは私に軽く会釈したあと、視線を奥へと走らせ、大神さんの姿でピタリと止まった。

もともと静かだった店内の空気が、ふっと密度を増したように感じられた。

「あ……おはようございます、高瀬さん。早いですね」

「ええ。近くまで用事があったので。……先客がいらっしゃったんですね」

高瀬さんの声は静かだったが、その瞳はどこか観察するような光を宿している。

一方の大神さんも足を止め、高瀬さんを見つめ返した。

「おはようございます。僕も朝一番に滑り込んだところなんですよ」

大神さんが親しみやすい笑顔で挨拶を交わす。

高瀬さんも穏やかに微笑み返したが、二人の間に漂う目に見えない緊張感のようなものを、私は感じ取っていた。

(……なるほど)

私は一人で深く納得した。

(高瀬さんも大神さんも、朝の空いている時間帯にじっくりと本を選びたいタイプなのだな。本格的な読書家同士、限られた『良書』を巡るライバル意識のようなものが働いているのかもしれない)

「お二人とも、朝一番のご来店ありがとうございます」

私が満面の笑みで丁寧にお辞儀をすると、高瀬さんと大神さんは同時に私を見つめ、それから顔を見合わせて微妙な表情を浮かべた。

「薄鉢さん……本当、ブレないですね」

大神さんがぽつりと呟いた言葉の意味を、私は「いついかなる時も接客の基本を忘れない姿勢」を褒められたのだと解釈した。

朝の光が差し込む宵月堂の店内で、静かな読書家たちの「戦い」が、いま始まろうとしていた。




つづく

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