第13話 朝の宵月堂は、静かにピリつく
「おはよう……っと」
奥の帳場から、大島さんが缶コーヒーを手にぬっと顔を出した。
九時を少し回ったところだ。いつもなら「今日も平和だな」といった顔で欠伸を噛み殺す時間帯である。
だが、今日の店長はステップを一段下りたところでぴたりと足を止めた。
(……なんだ、この空気は)
大島さんの目が、店内を素早く一巡する。
レジカウンターの前には、満面の笑みでお辞儀を終えた私。
そして、文芸棚の前に立つ二人――私服で爽やかに佇む大神さんと、少し離れた位置から静かに佇む高瀬さん。
表面上は至って静かな朝の古本屋だ。
だが、店内には張り詰めた弦のような、目に見えない独特のテンションが漂っていた。
大島さんは缶コーヒーのプルタブをチッと指で開けると、一口含んでカウンターにもたれかかった。
「……朝から精が出るねぇ、二人とも」
ボソリと呟かれた店主の声に、高瀬さんと大神さんが同時に振り返る。
「あ、大島さん。おはようございます」
「おはようございます、店長。今日はお邪魔してます」
二人は至って自然な笑みを浮かべて挨拶を返したが、大島さんはすべてお見通しといった様子で、どこか呆れたような目を向けた。
(……なるほどな。朝から二人もいるとは珍しい)
そして大島さんは、自慢の部下である私へと視線を移す。
私はレジの横でノートを開き、本日の売上予測の計算を始めていた。
(……で、当の本人は『朝から熱心な読書家が揃った』とでも思ってやがる)
大島さんは「やれやれ」と小さく頭を振ると、手に持った缶コーヒーをトントンとカウンターに叩いた。
「亜沙美。奥の文庫の補充、少し手伝ってくれ」
「あ、はい。わかりました」
私は素直に返事をして、奥の棚へ在庫の文庫本を取りに向かった。
残されたカウンター前で、大島さんは二人の客へ、サラッと一言だけ声をかけた。
「うちの店員、頭はいいんだがね。本の話以外は、絶望的に鈍いぞ」
唐突で、けれど核心を突いた店主の呟き。
大神さんは一瞬呆気にとられたあと、「知ってますよ……」と苦笑交じりに降参のポーズをとった。
高瀬さんは静かに目を伏せ、それからふっと小さく口元を緩めた。
「まあ、ゆっくり選んでいきな」
大島さんはそれ以上何も言わず、奥へと引っ込んでいった。
静かになった店内で、先に動いたのは大神さんだった。
彼はミステリー棚から一冊の単行本を手に取ると、高瀬さんへ親しみやすい笑みを向けた。
「高瀬さんも、よくここに来られるんですか? 僕は仕事帰りの閉店際が多いんですけど、朝の雰囲気もいいですね」
軽やかで物怖じしない問いかけ。高瀬さんは穏やかに微笑みを返した。
「ええ。仕事の合間や、静かな時間に立ち寄ることが多いです。……大神さんは、推理小説がお好きなんですね」
「ええ、特にロジックが綺麗な作品が。薄鉢さんともよくミステリーのトリックや伏線の話で盛り上がるんですよ。彼女、本当に分析が鋭くて面白いですよね」
大神さんはさりげなく「薄鉢さんとの共通の話題・距離の近さ」をアピールする。知的でスマートな牽制だ。
だが、高瀬さんも引かなかった。静かに棚へ視線を送りながら、柔らかい声で言葉を返す。
「そうですね。薄鉢さんは……表面的で分かりやすい部分だけでなく、本の中に込められた静かな思いや、言葉の裏側まで丁寧に読み取ってくださる方ですから」
ノートや便箋の「余白」を通じた自分たちだけの繋がり。
高瀬さんの言葉には、一朝一夕では作れない重みと情緒が込められていた。
大神さんの眉が、ほんの少しだけ動く。
「へえ……それは深そうですね。でも、言葉の裏ばかり探していると、目の前にある素直な動機を見落としちゃうこともありますから。ミステリーだと、案外一番シンプルな理由が真相だったりするんですよ」
「……なるほど。それも一理ありますね。ただ、現実の人間関係は、ミステリーのトリックほど単純なロジックでは割り切れないことも多いのではないでしょうか」
静かな言葉の応酬。
火花は散っていないはずなのに、二人の間には明確な譲れない一線が引き直されていた。
そこへ、奥から文庫本の束を抱えた私が戻ってきた。
「お待たせいたしました。……おや?」
見合っている二人の姿に、私は少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「お二人で本のご歓談ですか? 本格ミステリーのロジックと、文学作品の心情描写。対極にある二つのアプローチについて議論されているのでしょうか。実に興味深いテーマですね」
私が真面目に尋ねると、大神さんと高瀬さんは同時に私を見つめ、ほぼ同時に小さく息を吐いた。
「……ええ、まあ。とても『奥深いテーマ』について話していたところです」
大神さんが苦笑しながらそう言うと、高瀬さんも静かに頷いた。
「はい。答えが出るまで、もう少し時間がかかりそうですょ」
「そうですか。じっくり議論を深めてください。当店は読書を愛するお客様の熱い議論を歓迎いたします」
私が満面の笑みで頷くと、奥の帳場から大島さんの大きな溜息が聞こえた気がした。
つづく




