第14話 ライバル同士の見当違い
「……やれやれ」
宵月堂のドアをくぐり、秋の少し冷たい空気に触れたところで「大神さん」と背後から声をかけられ、足を止めた。
振り返ると、先ほどまで店内にいた高瀬が、静かな足取りで追いついてくるところだった。
「あ、高瀬さん。お帰りですか」
「ええ。近くの喫茶店で少し仕事をしようかと思いまして。大神さんも、お時間があれば少しどうですか? 駅前の『珈琲館』、静かでいい雰囲気ですよ」
「いいですね。行きましょう」
喫茶店の奥にある二人掛けのテーブル席に座り、ブレンドコーヒーが二つ運ばれてくると、大神はカップを手に取りながら、さりげなく視線を投げかけた。
「高瀬さんは、宵月堂には昔から通っていらっしゃるんですか? 大島店長や薄鉢さんとも、かなり気心の知れたご様子でしたが」
「……ええ」
高瀬は砂糖もミルクも入れずにコーヒーを一口啜り、ゆっくりと視線を上げた。
「祖母が昔、あの店と縁がありまして。ただ、僕自身が薄鉢さんとちゃんとお話しするようになったのは、ここ最近のことです。……彼女の、あの独特な本に対する分析や、物事の捉え方に惹かれましてね」
『惹かれましてね』という言葉に、大神の眉が微かに動く。
(……やはり、薄鉢さん狙いか?)
大神はあえて笑みを崩さず、探りを入れるように言葉を返した。
「分かります。薄鉢さんのあの徹底した論理と思考力は、一度ハマると癖になりますよね。普通の女性ならスルーするような細かい記述やロジックに、真顔で食いついてくる。……正直、僕も彼女のあの『分析力』にすっかり魅了されている口です」
「魅了、ですか」
「ええ。昨夜も閉店ギリギリに駆け込んで、彼女と推理小説の『動機』について議論になりましてね。彼女、僕の言葉を一つひとつ分解して、実に合理的な仮説を立ててくるんです。あの空間と、彼女の頭脳が生み出す対話の時間……あれは他では味わえませんよ」
大神は「自分は彼女の知的アプローチに強い関心があり、夜の密な時間を共有している」というニュアンスを込めつつ、高瀬の反応を伺った。
しかし、高瀬の受け止め方は、大神の意図とは大きくズレていた。
(……昨夜も閉店間際に来て、ミステリーの動機解明の議論をした……? 朝もわざわざ来て、彼女の『分析力』に魅了されている……?)
高瀬はふと、薄鉢亜沙美という人物の極端な性格を思い返した。
彼女は誰に対しても一切の私情を挟まず、ただ純粋な知識欲と論理だけで会話をする女性だ。
ということは――。
(……もしやこの人は、亜沙美さんという『一人の女性』に恋をしているのではなく、自分に都合のいい『優秀な議論相手』として彼女を重宝しているだけなのでは……?)
高瀬の中で、一つの確信めいた勘違いが持ち上がる。
このスマートなIT会社員は、恋愛感情というよりも、自分のマニアックなミステリー論に完璧についてこられる「便利なディベート相手」を求めているだけなのだと。
一方、高瀬の沈黙を見た大神もまた、探りを深めるべく問いかけた。
「そういえば、高瀬さんは普段どういったお仕事をされているんですか? 平日の朝にお見かけすることもあるので、少し気になっていて」
「ああ、僕は……古書の修復や製本を手掛ける仕事をしています。傷んだ紙の補修や、装丁の修復などですね」
「古書修復士……!」
大神は思わず目を見張った。専門的で職人気質なその職業に感心しつつ、脳内で瞬時にピースが組み合わさっていく。
「そうだったんですね。……なるほど、だから薄鉢さんと」
「ええ。彼女は本の中に残された些細な『余白』や、筆跡の痕跡、目に見えない制作当時の心情まで、とても大切に拾い上げてくれるんです。先日も、僕が修復を担当した古い本のメモについて、一切の偏見なく完璧な解釈と時代背景を読み解いてくれまして……職人として、心から信頼していますよ」
高瀬としては、「自分の大切な仕事や感性を理解してくれる、かけがえのない存在だ」というアピールだった。
だが、これを聞いた大神の脳内では、決定的な勘違いが完成した。
(……古書修復士! そして修復作業におけるメモや時代背景の解読……!)
大神は心の中でニヤリと膝を打った。
(……なんだ! 高瀬さんは『修復仕事のパートナー』として、亜沙美さんの卓越した分析力や文献調査能力を頼っているだけじゃないか! だから職人として信頼している、なんて言い方になるんだ……!)
大神の中で、高瀬に対するライバルとしての警戒感が一気に瓦解した。
目の前の男は彼女を女性として追っているのではなく、単に自分の「修復仕事に役立つ最強のリサーチ要員」として宵月堂に通っているに過ぎないのだと。
(……ふっ、彼女を一人の魅力的な女性として見つめ、その不条理な壁に挑もうとしているのは、僕だけか)
「……なるほど。高瀬さんのお仕事、とても素敵ですね。薄鉢さんのような『優秀な協力者』が身近にいるのは、心強いでしょう」
大神が絶対的な余裕を漂わせて笑うと、高瀬もまた(彼女の繊細な魅力や、僕が寄せる想いに気づかず、ただの『便利な分析屋』扱いしているのはこの人の方だな)と静かな優越感を抱き、穏やかに返した。
「ええ。彼女のおかげで、僕の仕事も非常にやりやすくなっています」
互いに「相手は明後日の方向から彼女を利用・重宝しているだけだ」と勝手に納得し、自分こそが本当の理解者だと胸を張るふたり。
「まあ、彼女のあの壁は……なかなか崩せそうにありませんがね」
大神が苦笑交じりに呟くと、高瀬も静かに微笑んだ。
「そうですね。ですが、時間をかける価値は十分にあります」
見事なまでに噛み合わないすれ違いを抱えたまま、男ふたりの静かな探り合いは幕を閉じた。
その頃――古書店『宵月堂』のレジカウンターでは。
「ふむ……今日の気温と湿度なら、文芸棚の配置換えを少し行った方が、お客様の滞留時間が二・三%向上するな」
亜沙美がひとり、ノートに完璧なロジックを書き込みながら、満足そうに頷いていた。
つづく




