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恋に憧れ  作者: 一雲一人


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8/15

第8話 紙の匂いと、残された返事

店に戻ると、雨はほとんどやんでいた。

アスファルトの表面だけが、まだ黒く湿っている。

大島さんはレジの奥で伝票を整理し始め、私は再び段ボールの山の前に立った。

『要確認・奥の棚用』

あの箱だけが、他と少し違って見えた。

ガムテープの貼り方が丁寧で、箱の角もほとんど潰れていない。老人が「これは別にしておいてくれ」と残した箱だ。

私は少し迷ったあと、箱を床に下ろした。

大島さんはこちらを見たが、何も言わない。止めるつもりもないらしい。

ガムテープを剥がす。

中から出てきたのは、やはり古書だった。

ただ、他の箱とは様子が違う。どれも表紙が綺麗で、ページの端がほとんど傷んでいない。大切に扱われていた本たちだ。

一冊を手に取り、開いてみる。

余白には、同じような短い書き込みがあった。

『ここで終わらせる必要、あるの?』

別の本にも書いてある。

『この台詞、もう少し素直でもよかったのに』

文句のようで、どこか惜しむような気持ちが滲んでいる。まるで「自分ならこう書かない」と言っているような筆致だった。

さらに奥から、一冊のノートが出てきた。

表紙は無地の茶色で、少し擦れている。

開くと、中には恋愛小説の構想らしきメモが走り書きされていた。

登場人物の名前。簡単なあらすじ。

「彼女は最後まで本音を言わない」

「彼は逃げない方がいい」

ページの端には、日付のような数字が小さく記されている。けれど、その記述も途中で途切れていた。

私はノートを閉じた。

大島さんが、いつの間にか後ろに立っていた。

「出たか」

「はい。書き込みのある本と、ノートです」

大島さんはノートを受け取り、パラパラとページをめくった。表情はほとんど変わらない。

「奥さんは、小説を書きたがっていたらしい。結局、一冊も形にはならなかったそうだ」

「……そうなんですか」

「本人は、それを知っていた。だから読み続けていたんだろうな」

大島さんはノートを箱に戻し、静かに言った。

「この箱の本は、しばらく奥の棚に分けておいてくれ。他のと混ぜなくていい」

私は頷いた。

箱の蓋を閉じながら、ふと気になった。

老人は、妻の書き込みを読みながら何を思っていたのだろう。

返事をするように読んでいたのか。それとも、書けなかった物語の続きを想像していたのか。

雨上がりの店内に、紙の匂いがゆっくりと広がっていく。

私は指示通り、書き込みのある本とノートを奥の棚に並べ始めた。他の棚とは少し離れた場所だ。

埃を払い、本を一冊ずつ立てていく。背表紙が揃うたびに、紙の匂いが少し濃くなる。

大島さんはレジに戻り、今日の売上伝票を確認していた。声をかける様子はない。この作業は、私に任せるつもりらしい。

ノートを最後に棚へ置く。

表紙の擦れた感触が、指に残った。

ふと、箱の底に何かあるのに気づく。

薄い封筒が、本の下に押し込まれていたのだ。

宛名も差出人もない。ただ、開封された痕跡だけがある。

私は少し迷ってから、封筒を手に取った。

中には、一枚の便箋が入っていた。

文字は、本の余白に書かれていたものと同じ筆跡だった。

『これを読んでいるあなたへ。

 結局、書けなかった。

 でも、書いてみたかった気持ちだけは、本物だったと思う。

 もし時間があったら、続きを考えてみてほしい。』

日付はない。誰に宛てたのかもわからない。

私は便箋を折り、封筒に戻した。

大島さんに見せるべきかどうか、少し考えた。結局、今は見せなかった。

封筒をノートの間に挟み、棚の一番奥に置いた。

店内は静かだった。

雨上がりの光が、窓から斜めに差し込んでいる。

私は棚の前に立ち、並んだ本を眺めた。

老人は、この便箋を読んでいたのだろうか。

それとも、妻が残した言葉を、誰にも渡さずにしまっていたのだろうか。

「続きを考えてみてほしい」

私は、その言葉を心の中で静かに繰り返した。

今夜、店を閉めたあと、もう一度この棚の前に立ちそうな気がした。



つづく

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