第8話 紙の匂いと、残された返事
店に戻ると、雨はほとんどやんでいた。
アスファルトの表面だけが、まだ黒く湿っている。
大島さんはレジの奥で伝票を整理し始め、私は再び段ボールの山の前に立った。
『要確認・奥の棚用』
あの箱だけが、他と少し違って見えた。
ガムテープの貼り方が丁寧で、箱の角もほとんど潰れていない。老人が「これは別にしておいてくれ」と残した箱だ。
私は少し迷ったあと、箱を床に下ろした。
大島さんはこちらを見たが、何も言わない。止めるつもりもないらしい。
ガムテープを剥がす。
中から出てきたのは、やはり古書だった。
ただ、他の箱とは様子が違う。どれも表紙が綺麗で、ページの端がほとんど傷んでいない。大切に扱われていた本たちだ。
一冊を手に取り、開いてみる。
余白には、同じような短い書き込みがあった。
『ここで終わらせる必要、あるの?』
別の本にも書いてある。
『この台詞、もう少し素直でもよかったのに』
文句のようで、どこか惜しむような気持ちが滲んでいる。まるで「自分ならこう書かない」と言っているような筆致だった。
さらに奥から、一冊のノートが出てきた。
表紙は無地の茶色で、少し擦れている。
開くと、中には恋愛小説の構想らしきメモが走り書きされていた。
登場人物の名前。簡単なあらすじ。
「彼女は最後まで本音を言わない」
「彼は逃げない方がいい」
ページの端には、日付のような数字が小さく記されている。けれど、その記述も途中で途切れていた。
私はノートを閉じた。
大島さんが、いつの間にか後ろに立っていた。
「出たか」
「はい。書き込みのある本と、ノートです」
大島さんはノートを受け取り、パラパラとページをめくった。表情はほとんど変わらない。
「奥さんは、小説を書きたがっていたらしい。結局、一冊も形にはならなかったそうだ」
「……そうなんですか」
「本人は、それを知っていた。だから読み続けていたんだろうな」
大島さんはノートを箱に戻し、静かに言った。
「この箱の本は、しばらく奥の棚に分けておいてくれ。他のと混ぜなくていい」
私は頷いた。
箱の蓋を閉じながら、ふと気になった。
老人は、妻の書き込みを読みながら何を思っていたのだろう。
返事をするように読んでいたのか。それとも、書けなかった物語の続きを想像していたのか。
雨上がりの店内に、紙の匂いがゆっくりと広がっていく。
私は指示通り、書き込みのある本とノートを奥の棚に並べ始めた。他の棚とは少し離れた場所だ。
埃を払い、本を一冊ずつ立てていく。背表紙が揃うたびに、紙の匂いが少し濃くなる。
大島さんはレジに戻り、今日の売上伝票を確認していた。声をかける様子はない。この作業は、私に任せるつもりらしい。
ノートを最後に棚へ置く。
表紙の擦れた感触が、指に残った。
ふと、箱の底に何かあるのに気づく。
薄い封筒が、本の下に押し込まれていたのだ。
宛名も差出人もない。ただ、開封された痕跡だけがある。
私は少し迷ってから、封筒を手に取った。
中には、一枚の便箋が入っていた。
文字は、本の余白に書かれていたものと同じ筆跡だった。
『これを読んでいるあなたへ。
結局、書けなかった。
でも、書いてみたかった気持ちだけは、本物だったと思う。
もし時間があったら、続きを考えてみてほしい。』
日付はない。誰に宛てたのかもわからない。
私は便箋を折り、封筒に戻した。
大島さんに見せるべきかどうか、少し考えた。結局、今は見せなかった。
封筒をノートの間に挟み、棚の一番奥に置いた。
店内は静かだった。
雨上がりの光が、窓から斜めに差し込んでいる。
私は棚の前に立ち、並んだ本を眺めた。
老人は、この便箋を読んでいたのだろうか。
それとも、妻が残した言葉を、誰にも渡さずにしまっていたのだろうか。
「続きを考えてみてほしい」
私は、その言葉を心の中で静かに繰り返した。
今夜、店を閉めたあと、もう一度この棚の前に立ちそうな気がした。
つづく




