第7話 ある老人の遺品
店の奥は、段ボール箱で埋まっていた。
大島さんは「午後からは通常営業」と言ったきり、ほとんど箱には触れない。
私一人で、少しずつ中身を確認していくことになった。
最初の箱を開ける。
古書特有の、乾いた紙の匂いが立ちのぼる。
中身はほとんどが文庫本だった。背表紙を見る限り、恋愛小説が多い。
二箱目も、三箱目も同じだった。
同じ作者の本がまとまっていたり、シリーズが途中まで揃っていたりする。
整理というより、誰かが丁寧に集めていた痕跡の方が強い。
四箱目を開けたとき、私は指を止めた。
ページの余白に、薄い鉛筆の字が残っている。
「こんな分かりやすい嘘を信じるなんて、馬鹿じゃないの」
次のページにもあった。
「もう少し自分の気持ちを言えばいいのに」
さらに数ページ進めると、また短い文句が書かれている。
怒りというより、呆れに近い筆致だ。
それでも本は、最後まで読まれた形跡がある。
私は他の本も、いくつか手に取ってみた。
同じように、余白に短い書き込みが残っているものが目立つ。
内容はどれも似ていた。登場人物の言動に対する、小さな苦情や疑問。
「……面白い読み方をする人だったんですね」
思わず声に出すと、奥から大島さんの声が返ってきた。
「書き込みか」
「はい。かなり残っています」
大島さんは段ボールの山を見ながら、静かに言った。
「あの人の奥さんだよ。本に文句を書きながら読む人でな」
それ以上は語らなかった。
私の方からも、深くは聞かなかった。
箱を一つ開け終わるたびに、床に小さな山ができる。
書き込みのある本と、そうでない本。
私は無意識に、書き込みのある方を別にしていき始めていた。
『要確認・奥の棚用』とメモされた箱は、まだ手をつけていない。
他の箱より少しだけ大きく、ガムテープの貼り方も丁寧だった。
雨は午後になっても、完全には止まなかった。
シャッターの隙間から、湿った空気がゆっくりと流れ込んでくる。
私は次の箱に手をかけながら、思った。
この書き込みは、ただの感想なのだろうか。
それとも、何か別の意味を持っているのだろうか。
奥の棚用の箱を、いつ開けるべきか。
まだ、少しだけ迷っていた。
大島さんが、段ボールの山から顔を上げた。
「薄鉢さん、昼にするか」
唐突だった。
「私は適当に済ませるつもりでしたが」
「今日は俺が奢る。近くの喫茶店でいいだろ」
断る理由が、特に見当たらなかった。
腕のだるさも残っている。
私は手袋を外し、手を洗ってから大島さんについて店を出た。そして、シャッターを下ろした。
雨は小降りになっていたが、止んではいなかった。
傘を差しながら、二人で細い道を歩く。
大島さんはあまり喋らない人だ。
今日も、店を出てからしばらくは沈黙が続いた。
喫茶店は、商店街の角にある小さな店だった。
古い木の扉を開けると、珈琲の匂いがした。
窓際の席に座り、大島さんはブレンドコーヒーとホットサンドを、私も同じでと頼んだ。
メニューをほとんど見ずに注文した。
珈琲が来るまでの間、大島さんは窓の外を見ていた。
雨粒がガラスを伝っている。
「あの本はな」
突然、口を開いた。
「ある老人の遺品だ。奥さんが先に亡くなって、そのあと本人も続いた」
私は黙って聞いた。
「奥さんは恋愛小説をよく読んでいた。ただ読むだけじゃなくて、余白にいろいろ書き込んでいたらしい。文句みたいなものが多かった」
大島さんはカップを両手で包みながら、続けた。
「本人は、奥さんが亡くなってから、その本を順番に読み始めたそうだ。書き込みを消さずに、そのまま」
「……そうだったんですか」
「ああ。で、本人が亡くなったあと、遺族からまとめて引き取ってくれと頼まれた。処分するのも忍びない、と」
珈琲が運ばれてきた。
湯気が、二人の間に薄く立ちのぼる。
大島さんは一口飲んでから、少しだけ声を低くした。
「ただな。奥の棚用の箱だけは、本人が『これは別にしておいてくれ』と遺言みたいに残していたらしい」
私はカップを持ったまま、手を止めた。
大島さんはそれ以上何も言わず、窓の外の雨を見ていた。
私は、店に残してきたあの箱のことを思い出した。
『要確認・奥の棚用』
中に、何が入っているのだろう。
つづく




