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恋に憧れ  作者: 一雲一人


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第6話 ある人の古書

朝、目覚まし時計が鳴る。

午前六時十分。

私は目を開けた。

普段より二十分早い。

昨夜、店主から一通のメッセージが届いていたからだ。

『明日は少し早めに来てくれ』

少し。

実に曖昧な表現である。

五分前かもしれない。

十分前かもしれない。

人によって認識は違う。

ただ、一時間前は明らかに「少し」ではない。

逆に五分前では、わざわざ連絡する意味が薄い。

考えた結果、私は二十分という数字を選んだ。

妥当な範囲だと思う。

根拠としては十分である。

たぶん。

私はカーテンを開けた。

窓ガラスに細かな雨粒が張り付いている。

雨だった。

昨夜の予報では降水確率六十パーセントだったはずだ。

つまり、降る可能性の方が高かった。

統計的には想定内である。

しかし実際に降っているのを見ると、少しだけ気が重い。

徒歩通勤の欠点は、こういうところだ。

私はため息をつく。

傘を持たなければならない。

その事実が、少し面倒だった。

店に着くと、軽トラが停まっていた。

シャッターは既に開き、店主と見慣れない若い男性がいた。

トラックから大量の段ボール箱を降ろしているところだった。

「薄鉢さん、段ボール箱を少し奥へ運んでください」

店主の大島さんが言う。

荷降ろしは、想像以上に時間がかかった。

段ボール箱の数は、軽トラの荷台を埋め尽くすほどあった。

一箱ごとに「重い」「軽い」の区別などほとんど意味がなく、どれも同じように腕に負担がかかる。

私は黙々と運んだ。

大島さんと若い男性も、同じように汗を流していた。

雨は止んでいなかった。

店の前のアスファルトが、黒い光を帯びて濡れている。

運ぶたびに、靴の裏が微妙に滑る。

「……ここまででいい」

大島さんが、ようやく言った。

荷台はだいぶ空いてきていた。

店の奥には、段ボール箱が不格好に積み上げられている。

空間が狭くなった分、空気まで少し重く感じた。

私はゴム手袋を外した。

中は予想通り、汗でびしょびしょだった。

ハンカチで手を拭きながら、若い男性の方をちらりと見る。

二十代前半くらいだろうか。

黒い作業着を着ていて、顔にはまだ疲労の色が薄い。

慣れているのか、それとも単に体力があるのか。

「お疲れ様です」

若い男性が、私に向かって軽く頭を下げた。

「助かりました。一人だと、かなりきつかったので」

声は意外と落ち着いていた。

私は軽く会釈を返した。

「薄鉢です。こちらこそ」

名前を名乗ると、彼は少し驚いたように目を見開いた。

「薄鉢……? ミツバチみたいで!いや珍しい苗字ですね」

「たまに言われます」

私はそれだけ答えて、手袋をポケットにねじ込んだ。

珍しい苗字であることは事実だ。

ただ、今はそれについて詳しく話す気力がない。

腕がまだ微かに震えている。

大島さんが、段ボールの山を眺めながら言った。

「今日はこれで終わりだ。午後からは通常営業にする」

「この箱は、なんですか」

私は聞いてみた。

聞かないわけにはいかない。

こんな量を、突然運ばされた理由くらいは知りたい。

大島さんは、少し間を置いてから答えた。

「古書だよ。まとめて仕入れた」

「まとめて、ですか」

「ああ。ある人から、まとめて引き取ってくれと頼まれてな」

それ以上の説明はなかった。

大島さんは若い男性の方を向き、軽く顎をしゃくった。

「桐生、ありがとうな。また何かあったら連絡する」

「はい。こちらこそ」

桐生と呼ばれた男性は、丁寧に頭を下げると、軽トラに乗り込み、エンジンをかけた。

雨の中を、ゆっくりと走り去っていく。

店内に、再び静けさが戻った。

私は積み上げられた段ボール箱を見ながら、思った。

「ある人」とは誰なのか。

なぜ、こんなに大量の古書を一度に手放す必要があったのか。

大島さんは、そのことについてこれ以上話そうとしない。

私の方から深追いする理由も、今はない。

ただ、箱の一つに、小さな文字で書かれたメモが貼られているのが見えた。

『要確認・奥の棚用』

私は、それを黙って見つめた。

雨音が、シャッターの隙間から微かに聞こえてくる。



つづく

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