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恋に憧れ  作者: 一雲一人


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第5話 物語の中の恋

閉店後の宵月堂は静かだった。

本棚に囲まれた空間というのは、店を閉めると少しだけ世界から切り離されたような気分になる。

私はレジの集計を終え、店主が奥に帰ったのを確認してから休憩用の椅子に腰掛けた。

鞄から文庫本を取り出す。

恋愛小説だった。

我ながら不思議である。

最近になって恋愛小説を読むことが増えた。

昔は読まなかった。

ミステリー。

歴史小説。

エッセイ。

そういう本ばかりだった。

恋愛小説は非論理的だと思っていたからだ。

知らない男女が出会う。

会話をする。

惹かれ合う。

そして恋に落ちる。

その過程がどうにも曖昧に見えた。

だが最近は違う。

むしろ気になる。

人間はどうして恋をするのか。

その答えがどこかに書いてある気がして、つい手に取ってしまう。

私はページをめくった。

主人公の女性が東京駅のホームで男性と再会する場面だった。

四十年前に別れた幼なじみ。

偶然の再会。

そして忘れていた感情。

なるほど。

物語としてはよくある。

現実にはそうそう起きないだろう。

私はそう考えた。

だが同時に思う。

もし起きたらどうなのだろう。

もしそんな相手がいたら。

もし会えたら。

もし、その人が自分をずっと覚えていてくれたら。

私はそこで思考を止めた。

考えても仕方がない。

私は恋愛経験がない。

幼なじみとの再会もなければ、運命的な出会いもない。

そもそも、そんなものが本当に存在するかどうかも分からない。

分からないのだが。

少しだけ。

ほんの少しだけ。

羨ましいとは思った。

物語の中の主人公たちは、誰かに見つけてもらえる。

大勢の中から選ばれること。

特別な存在になること。

それはいったい、どんな感覚なのだろう。

私は本を閉じた。

母と話した記憶はない。私が生まれてまもなく亡くなったからだ。

兄弟もなく、男手一つで私を育ててくれた父も、癌で三年前に死んだ。

父は転勤族だったせいで、幼馴染も、学校で親しくなった友人も、ほとんどいない。

そんな自分が、ふと苦笑した。

馬鹿らしい、と。

三十歳にもなって、何を考えているのだろう。

現実は小説ではない。

宵月堂へ来る客は本を買いに来る。

そこに運命的な出会いなど存在しない。

恋愛小説と現実を混同するほど私は子供ではなかった。

それでも。

ふと気付く。

恋愛小説を読む時、私は主人公を羨ましいと思っているのではない。

恋そのものを羨ましいと思っているのだ。

誰かに大切にされること。

誰かの特別になること。

その相手のことで頭がいっぱいになること。

そういう経験をしたことがない。

だから少しだけ憧れる。

少しだけ。

本当に少しだけだ。

私はそう結論付けた。

店長の奥さん(恵子さん)が、「晩ご飯食べていって」と呼びに来た。

店長は出掛けていて、いなかった。

ご馳走になって店を後にする。

かれこれ一年、ほぼ毎晩三人で夕食を共している。

帰り道、途中にあるペットショップの窓越しで、いつものように小鳥を眺めていた。

その時だった。

スマートフォンが震える。

通知が一件。

店長からだった。

『明日は少し早めに来てくれ』

短い連絡である。

私は時計を見る。

午後九時三十三分。

内容が気になったが、今聞くほどでもない。

私は返信だけしておく。

『分かりました』

送信してスマートフォンを置く。

そして再び文庫本へ目を落とした。

主人公の女性は、再会した男性にこう言っていた。

「会えてよかった」

私はしばらくその一文を見つめる。

そして小さく首を振った。

やはり分からない。

会えただけで嬉しいという感覚が。

まして、その一言を口にできる気持ちが。

恋とは不思議だ。

いつか理解できる日が来るのだろうか。

あるいは。

理解する前に、自分が当事者になる日が来るのだろうか。

その時の私は、まだ知らない。

翌日の宵月堂で、少しだけいつもと違う出来事が待っていることを。

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