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恋に憧れ  作者: 一雲一人


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3/15

第3話 常連客という存在

店のシャッターを半分だけ上げると、朝の光が店内へと流れ込んできた。

私は入り口のドアを開けたままにして、しばらく空気を入れ替える。

古い紙の匂いが好きだった。

新品の本には新品の良さがある。

だが古本には時間がある。

誰かの本棚に置かれていた時間。

誰かに読まれていた時間。

そういうものが染み込んでいる気がする。

もちろん気のせいかもしれない。

本に記憶が宿るわけではないのだから。

それでも私は、この匂いが嫌いではなかった。

店主が来るまでの間、私は昨日買い取った本を整理する。

店内は静かだった。

時計の針の音が聞こえそうなくらい静かだ。

こういう時間は落ち着く。

余計なことを考えずに済むからだ。

本当なら。

しかし最近はそうでもない。

恋とは何なのだろう。

そんなことばかり考えてしまう。

我ながら面倒なことを気にし始めたものだと思う。

答えが出ないと分かっている問題ほど厄介なものはない。

数学なら答えがある。

仕事にも終わりがある。

けれど恋は違う。

人によって答えが違う。

場合によっては本人ですら答えられない。

そんな曖昧なものを、人はなぜ信じられるのだろう。

そんなことを考えていると、入り口のドアについた鈴が小さく鳴った。

私は顔を上げる。

まだ開店時間前だった。

店主が本棚の奥の居間から顔を出したり、表の玄関前を掃除してから入ってきたりと、朝の登場はその日によって違う。

店主にしては少し早いな、と一瞬思ったが、入ってきた人物の姿を見て納得した。

朝の一番にやってきたのは、常連客だった。

背が高く、二十代後半くらいだろうか。

仕事の関係もあるのだろう、週に三回は来る。

多い時は四回。

十年間この店で働いてきたが、来店頻度だけなら上位に入る人だった。

「おはようございます」

男性は軽く頭を下げた。

「おはようございます」

私も会釈を返す。

それだけだった。

それ以上の会話はない。

だが、その人は毎回必ず挨拶をしてくる。

律儀な性格なのかもしれない。

男性は文芸書の棚へ向かった。

私は作業へ戻る。

相当な読書家なのだろうと思う。

そう考えるのが自然だった。

週に何度も古本屋へ足を運ぶ理由など、普通に考えればそれしかない。

本が好き。

その一言で十分説明がつく。

むしろ他の理由を思いつかなかった。

三十分ほど経った頃だった。

「すみません」

顔を上げる。

先ほどの常連客だった。

手には一冊の文庫本が握られている。

「はい」

「それ、面白いですか?」

指差された先を見て、私は少しだけ首を傾げた。

私がレジの横に置いていた本だった。

休憩時間に読む予定の推理小説である。

「ああ、これですか」

私は本を手に取った。

「面白いですよ」

「どんな話なんですか?」

私は簡単に説明した。

連続する不可解な事件。

癖の強い探偵。

いくつも張られた伏線。

そして最後の種明かし。

話し終えると、男性は嬉しそうに頷いた。

「じゃあ買います」

そう言って棚の方へ戻っていった。

私は少し感心した。

即断即決である。

読書量が多い人ほど本選びが早いという話を聞いたことがある。

たぶん、そういう人なのだろう。

本との出会いに慣れているのだ。

しばらくして、また声が掛かった。

「薄鉢さん」

私は思わず顔を上げた。

名前を呼ばれたからだ。

常連客だから覚えているのだろう。

名札も付けている。

別に不思議ではない。

「おすすめの本ってありますか?」

「おすすめですか」

私は少し考えた。

この質問は意外と難しい。

食べ物と同じだ。

好き嫌いがある。

全員に勧められる一冊など存在しない。

「どんな本がお好きなんですか?」

そう尋ねると、男性は少し考えた後、

「薄鉢さんが面白かった本で」

と言った。

私は納得した。

なるほど。

そういうタイプか。

本そのものだけでなく、人の感想にも興味を持つ読書家なのだろう。

読書会などではよく聞く話だ。

同じ作品を読んでも感想は人によって違う。

だから他人のおすすめを知りたくなる。

きっとそういうことだ。

私は棚の前へ移動しながら、本を数冊選んだ。

その間、男性はなぜかずっと楽しそうだった。

おすすめの本を聞けるのが嬉しいのだろう。

本好きなら珍しくない。

たぶん。

夕方。

客足が落ち着いた頃、店主が何気ない口調で言った。

「また来てたな」

「誰がですか?」

「高瀬くん」

私は少し考えた。

誰だろう。

数秒遅れて気付く。

あの常連客のことらしい。

「名前、初めて知りました」

「よく来るだろ」

「そうですね。熱心な読書家なんだと思います」

そう答えると、店主は妙な顔をした。

何か言いたそうな顔だった。

しかし結局は小さく笑うだけだった。

「まあ、熱心なのは確かだな」

店主はそう言って奥の自宅部屋へ引っ込んでいった。

私は首を傾げたが、すぐに作業へ戻った。

新しく買い取った文庫本の整理が残っていたからだ。

高瀬という常連客のことを、もう少し考えてみてもよかったのかもしれない。

もっとも、その時の私はそんなことを思いもしなかったのだけれど。



つづく

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