第2話 朝のルーティン
朝、目覚まし時計が鳴る。
午前六時三十分。
私は目覚ましを止める。
そして、二度寝はしない。
これは私なりの経験則だ。
人によっては、あと五分だけ眠ることで幸福を感じるらしい。
だが私には、その理屈がよく分からない。
五分追加で眠ったところで劇的に疲労が回復するわけではないと思っている。
むしろ問題は、その後にある。
起きようと決意した直後に再び眠る。
そして数分後、もう一度起きなければならない。
同じ決断を二回行うのは効率が悪い。
だから、私は起きる。
小学生になってから、ずっとそうしている。
……正確には、小学一年の冬のある朝に二度寝をして、おねしょをした直後からの習慣だが。
私は布団の中で一度だけ伸びをして、ゆっくりと身体を起こした。
カーテンを開ける。
窓の外を見る。
晴れ。
昨日の天気予報どおりだった。
傘は必要ない。
もちろん天気予報が絶対に当たるわけではない。
だが、外れる可能性を理由に傘を持ち歩くなら、毎日折りたたみ傘を持ち歩くことになる。
そこまでして回避すべきリスクだろうか。
私の勤務先までは徒歩十二分。
仮に雨が降ったとしても致命的な損失ではない。
それに店にはビニール傘が置いてある。
総合的に判断して、傘は不要だった。
私はカーテンを閉める。
もちろん濡れる時は濡れる。
世の中には回避できない事象もある。
私は一人暮らしだ。
五年前から、この古いアパートの二階に住んでいる。
家賃は安い。
駅からは遠い。
築年数もそれなりだ。
一般的な評価を数値化すれば、高得点とは言い難い物件だと思う。
だが職場には近い。
居間の他に寝室があり静かだ。
隣室の生活音もほとんど聞こえない。
私にとって重要な項目は、その二つだった。
評価基準は人によって違う。
だから私は、この部屋が気に入っている。
ベッドを整える。
洗面所へ向かう。
顔を洗う。
歯を磨く。
髪を整える。
順番は決まっている。
変える理由もない。
人はよく気分転換と言うが、私は手順を変えたところで特に楽しくならない。
同じ結果になるなら、慣れている方法の方が早い。
化粧もしない。
必要性を感じないからだ。
美容そのものを否定しているわけではない。
化粧をして気分が上がる人もいるだろう。
それはそれで合理的だと思う。
だが私の場合、化粧によって得られる利益より、準備時間が増える不利益の方が大きい。
だからしない。
ただ、それだけの話だった。
朝食は食パン一枚とコーヒー。
たまに卵を焼くこともある。
ただし頻度は低い。
朝からフライパンを洗いたくないからだ。
食事は重要である。
だが重要だからこそ、毎回そこへ労力を注ぎ込む必要はない。
栄養。
満腹感。
準備時間。
片付け時間。
その四つを総合的に判断した結果が、食パンとコーヒーだった。
少なくとも現時点では、最適解である。
コーヒーを飲みながらトースターに食パンを入れスマートフォンを見る。
午前六時五十二分。
パンは温める程度だ。
ニュースを確認する。
天気予報から今日の気温を確認する。
そして必要な情報だけを頭に入れる。
芸能ニュースは見ない。
正確には、積極的には見ない。
興味がないわけではないからだ。
例えば芸能人の恋愛報道。
あれを見るたびに思う。
なぜ多くの人は、他人の恋愛に興味を持つのだろう。
政治なら社会に関係する。
経済なら生活に関係する。
災害なら安全に関係する。
だが、誰が誰を好きになったのかという情報は、自分の人生に直接関係しない。
少なくとも理屈の上では。
それにもかかわらず、多くの人はその話題に引きつけられる。
つまり恋愛には、人間を惹きつける何かがあるのだろう。
私はまだ、それを理解できない。
コーヒーを一口飲み食パンを噛る。
昨日も考えていた。
恋とは何なのか。
三十歳になってから、そんなことを考えるようになった。
理由は分からない。
たぶん三十という数字のせいだ。
二十九歳なら、まだ「いつか」で済ませられる。
三十一歳でも、おそらく同じだ。
だが三十歳には不思議な区切りがある。
数字そのものには何の意味もないはずなのに、人は節目を作りたがる。
成人。
還暦。
百年。
十年。
三十年。
人間は昔から、きりの良い数字が好きだ。
論理的な意味はなくても、心理的な意味はあるらしい。
私は時計を見る。
午前七時二十五分。
予定より三分遅れていた。
考え事をしていたせいだ。
これは良くない。
思考は有意義だが、予定を乱してはいけない。
私は残っていたコーヒーを飲み干した。
歯をもう一度磨く。
鞄を確認する。
財布。
スマートフォン。
鍵。
ハンカチ。
全部ある。
よし。
午前七時三十五分。
予定通り家を出る。
鍵を閉める。
そして二回確認する。
本来なら一回で十分だ。
鍵が閉まった事実は二回目で変化しない。
しかし、人間の不安は事実だけでは消えない。
二回確認することで安心できるなら、その数秒には価値がある。
合理性とは、必ずしも最短手順を意味しない。
不安を減らすこともまた合理的なのだ。
階段を下りる。
外は少しだけ涼しかった。
夏の朝特有の、まだ本気を出していない暑さだった。
私は歩き出す。
いつもの道。
いつもの角。
いつもの自動販売機。
そして、いつもの古本屋。
そこに勤め始めて今年で十年になる。
店の名前は、
『古書店・宵月堂』
個人経営の小さな古本屋だ。
大型書店のような華やかさはない。
新刊もほとんど置いていない。
それでも私は、この店が好きだった。
古い本には、人の痕跡が残っている。
ページの端についた折り目。
薄く残った鉛筆の線。
栞代わりに挟まれた古いレシート。
私はそういうものを見るたび考える。
この本を読んでいた人は、どんな人だったのだろう。
何を考えていたのだろう。
どうしてこの本を買ったのだろう。
そして、
なぜ手放したのだろう。
本そのものも好きだが、人の痕跡を想像する時間も嫌いではなかった。
午前七時五十二分。
私は店の前に立つ。
まだ開店時間ではないが開店の九時まで、色々と準備がある。
八時出社。
鍵を取り出す。
ここから先も、いつも通りだ。
鍵を開ける。
照明をつける。
シャッターを半分だけ上げる。
店内の空気を入れ替える。
その後、店主が来るまでに昨日買い取った本を整理と清掃をする。
毎日ほとんど同じ。
変化の少ない日々だった。
退屈だと思う人もいるだろう。
だが私は嫌いではない。
予想できることは安心につながる。
安心は無駄な消耗を減らす。
つまり変化が少ないというのは、決して悪いことではない。
人生も、きっとそんなものだと思っていた。
少なくとも――
この日の朝までは。
つづく




