第9話「遠くへ行けば、戻れるのか」
王都までの道を指でたどっても、元の身体へ戻れるとは限らなかった。
クラリッサは夫の大きな指で、卓の上の地図をなぞっていた。リュネの町から南へ、峠を越えて、いくつもの宿場を抜けて、王都へ。結婚して北へ来るとき、馬車の窓から見た道だった。母の家はその先にある。
零時に、また替わった。三度目ともなると、目を開けた瞬間に手の大きさで分かった。
控室の卓には、オズワルドが書庫から運んできた物が並んでいた。古い羊皮紙の図面が一枚と、旧い領界図が一枚。図面は台座を上と横から描いたもので、余白に細かな書き込みがある。
「昨日の夕方、見つけました。旧領政道具の棚の奥に、目録とは別に挟まっておりまして」
家令の声には疲れが滲んでいた。夜遅くまで探してくれたのだろう。
クラリッサは図面の余白に目を凝らした。古い書体で、かすれている。オズワルドが、読める部分を一つずつ指で示した。
――結ばれし二者、所領の境のうちに在るべし。
――境を出づれば、巡りは止む。されど、その時の身は替わらず。
隣で、自分の姿をしたローレンスが、領界図を広げた。エルヴェイン領の境が太い線で引かれている。南の峠の手前で、線は街道を横切っていた。
クラリッサは、懐の手紙のことを思い出した。母へ宛てた二通目。記念日の夜に封をして、まだ出していない。到着の目安まで書いてある。
遠くへ行けば、と一瞬、考えたのだった。今朝、目を覚ましたときに。この領地から離れてしまえば、この奇妙なことからも離れられるのではないか、と。
「境を出たら、巡りは止まる」
声に出して読んだ。夫の低い声で。
「でも、身体は替わらない。……もし私が今日、この身体で峠を越えたら」
「君は私の身体のまま、向こうに残る」
ローレンスが静かに言った。
「そして私は、君の身体のまま、ここに残る」
その日の零時を過ぎても、明日の零時を過ぎても。戻るためには、もう一度二人とも境の内へ入らなければならないのかもしれない。それすら、図面には書かれていなかった。
クラリッサは地図から指を離した。
自分の身体が、知らない場所で、自分ではない誰かとして目を覚ます。母の家で、母が娘の顔を見て、娘ではない声を聞く。
「離れることと、戻ることは同じではないのですね」
ローレンスは領界図を畳まずに、そのまま卓の上に置いた。
「境を出るなとは言わない」
クラリッサは顔を上げた。
「それは、君が決めることだ。私が止める理由にはしない。ただ、出る前に、何が起きるかだけは知っておいてほしかった」
「……今は、出ません」
それは自分の判断だった。夫に言われたからではなく。
「別の方法を探します」
*
エダが往診鞄を提げて入ってきたのは、そのすぐあとだった。オズワルドが呼んでおいたらしい。医師は図面を覗きこみ、それから首を振った。
「私には読み解けません。ただ、お二人のお身体のことなら」
オズワルドが図面の別の箇所を指した。台座の側面に、小さな蓋のような部分が描かれている。そこに矢印が引かれ、封、と一字だけ添えてあった。
家令は燭台を持ち、布をかけた台座の側面を、触れないように照らした。確かに、蔦の彫りの間に、爪ほどの大きさの蓋がある。今まで誰も、ただの飾りだと思っていた部分だった。
「図面では、これを閉じると巡りが止まる、と」
オズワルドが読み上げた。
――封を閉ずれば、次の巡りは来たらず。
「次の巡りが、来ない」
クラリッサは繰り返した。
「それは……今、ここで閉じたらどうなるのですか」
誰もすぐには答えなかった。やがて、ローレンスが言った。
「次が来ないなら、今のままだ」
クラリッサは、自分の膝の上の大きな手を見た。今閉じれば、この手のまま。明日の零時も、明後日の零時も。
エダが口を開いた。
「もしそうなっても、お身体のお世話は今までどおり続けられます。ご自分のお身体でなくとも、睡眠と食事と痛みは記録できます。ただ、それを望まれるかどうかは」
「望みません」
クラリッサは即座に言った。それから、少し声を落とした。
「すみません。でも、閉じるなら、自分の身体に戻っている日にしたいです」
「明日だな」
ローレンスが言った。明日は、二人とも自分の身体に戻る日のはずだった。
「明日なら、閉じてもそれぞれの身体のままでいられる。……図面のとおりなら」
オズワルドがもう一度、余白を読んだ。
――封は巡りを止むるのみ。結びを解くには、登録の原本と解きの式を要す。原本は王都の文書庫に納む。
クラリッサは、その一行を何度か目で追った。
「止められることと、結び付きを消すことは別のようです」
「封で止めても、台座と指輪はまだ結ばれたままということか」
「たぶん、そうです。完全に解くには、王都にある原本が要る」
蓋の閉じ方も、閉じたあとで何が起きるのかも、明日、もう一度確かめることにした。今日は、何も触らない。
*
「王都の文書館に、問い合わせを出しましょう」
クラリッサは紙を引き寄せた。夫の手は大きく、ペンが小さく見えた。けれど字は、自分の字だった。指が太くても、書き方は自分のものだった。
台座の刻印の番号。旧領政道具目録の該当頁。最初に替わった夜と、その後の四度の零時に起きたこと。替わった夜と戻った夜を、一晩ずつ時刻とともに。図面の写し。必要なことを、余計な推測を入れずに並べていく。
ローレンスが、それを領地からの正式な照会の書式に整えた。彼自身の手で書き、彼自身の名を記した。中身が誰であれ、領主の照会は領主本人が出すものだった。オズワルドが封蝋を押した。
「控えを二通、作ってください」
クラリッサが言うと、オズワルドは頷いた。
「旦那様と奥様に、一通ずつ」
それから、クラリッサはもう一枚、別の紙を取った。
「こちらは、私の用件です」
ローレンスが手を止めた。
「離婚の申請について、確かめておきたいことがあります。二人で申し出る場合と、片方だけの場合と。代理人に頼むなら、どこへ連絡すればいいか」
彼女は母の家に出入りしている代書人の名を書いた。結婚前に、契約書を見てもらったことのある人だった。
「この身体のことがあるから、今すぐ出すつもりはありません。でも、手順は知っておきたいんです」
ローレンスは長いあいだ、その紙を見ていた。
「……分かった」
それから、はっきりと言った。
「魔法のことと、結婚のことは、別に扱う。魔法が解けるまで、君の申し出がなかったことになるわけではない」
「身体を戻す相談と、結婚の相談は分けてください」
クラリッサは同じことを、自分の言葉でもう一度言った。夫が先に言ってくれたことが、少し意外だった。けれど、自分の口からも言っておきたかった。
オズワルドが、照会の文書を確かめながら言った。
「王都まで、通常の便で五日。文書館が原本を探すのに、どれほどかかりますか。往復で、早くとも数週間は」
「数週間」
クラリッサは呟いた。その間、零時は何度も来る。
照会の控えが乾くと、オズワルドはそれを二人に一通ずつ手渡した。クラリッサは夫の上着の内側に、それをしまった。ローレンスは、彼女の部屋着の袖の中に。
どちらかが知らないうちに、問い合わせが消えてしまうことはない。
*
照会を出す使いが出ていくと、控室は静かになった。
「明日、自分の身体に戻ったら、閉じることもできるのですね」
クラリッサが言うと、ローレンスは頷いた。
「できる。……君がそう望むなら」
望むかどうか、クラリッサには分からなかった。
閉じれば、もう夫の身体で目覚めることはない。夫の書斎で、知らない地図に戸惑うこともない。そのかわり、昨日マルタと市場の通りを歩いたことや、夫が相談室の帳面を読んだことのような、二人のあいだを行き来していた何かも止まる。
それが惜しいのかどうかも、まだ分からなかった。
「今日、決めなくてもいいですか」
「いい」
ローレンスは即答した。
「明日、手順を確かめるときに話そう。今日は、今日のことをする」
今日のこと。決まっていることは多くなかった。身体の記録をつけること。相手の物には聞いてから触れること。重要な判断はしないこと。
「それから、午後の面談だ」
ローレンスが言った。今日は、寄付をしてくれている商家の主人が、配給の相談に来る日だった。もともとクラリッサが受けるはずだった約束だ。
「私が出る。君の姿で」
「新しい約束はしないでください。今ある配給の案を、説明するだけで」
「分かっている」
ローレンスは一度、言葉を切った。
「……君が普段、どういうふうにあの部屋で人と会っているのか、知りたいとは思う。でも、それは君が嫌でなければだ」
クラリッサは少し考えて、相談室の帳面の場所だけを教えた。
「続けるかどうかは、戻った私が決めたいです」
ローレンスは、それ以上何も言わなかった。
窓の外で、昼の鐘が鳴り始めた。
明日は戻れる。その後の零時をどうするかは、まだ決めていない。




