第10話「私の名前を、忘れないで」
相手は何度も伯爵の名を口にしたが、クラリッサの名は一度も呼ばなかった。
ローレンスがそれに気づいたのは、面談が始まって四半刻ほど経ったころだった。
相談室の向かいの椅子に、毛織物を商うホルストという男が座っていた。五十がらみの、身なりのよい男だ。秋から三度、布と金を寄付してくれていると帳面にあった。妻の几帳面な字で、寄付の日付と品目、それを何に使ったかが記されている。最後の欄に、小さく、定期の面談は月に一度、と添えてあった。
昼のうちに、ローレンスはその帳面を開いておいた。妻が教えてくれたのは帳面の場所だけで、中のどこまで読んでよいかは聞いていなかった。だから彼は、寄付者の欄と、今ある配給の案を書いた頁だけを開いた。ほかの頁にも細かな字が続いているのは見えたが、めくらずに閉じた。
足りない分は、昨日までに妻から聞いた話と、自分が相談室で見たことで補えた。サイズの合わない上着。受取所へ来られない家。説明することは、もう頭に入っていた。
「奥様には、いつもお世話になっております」
ホルストは丁寧に頭を下げた。それから、すぐに言った。
「ところで、伯爵様は近ごろお忙しいのでしょうな。国境の橋の件も伺いました。次の冬支度の会議は、いつごろになりますか」
「……月の半ばの予定と聞いております」
ローレンスは、妻の声で答えた。自分の予定を、自分のことではないように答えるのは奇妙だった。
「さようですか。いや、実は羊毛の取引のことで、一度伯爵様に直接お話を、と思っておりまして。奥様からお口添えいただければ」
「その件は、別にお伝えいたします」
ローレンスは帳面の配給案の頁を開いた。
「今日は、配給の内容についてお話を伺います」
ホルストは微笑んだ。
「もちろん、もちろん。奥様のお働きには感心しております。ご婦人の手でここまでなさるとは」
そして、また窓の外へ目をやった。
「それにしても、伯爵様はあの橋を、どのようにお直しになるおつもりなのでしょうな」
*
ローレンスは、話を戻した。
「秋に配った上着のことです。数は足りていました。ですが、ほとんどが大人の寸法で、子どもには合わなかった家が多いのです。それから、受取所が開いている時刻に来られない家もあります」
三軒の家のことを、名を伏せて話した。祖母と幼い子どもたち。市場で一日立っている母親。昼の二刻しか開かない受取所。
「次に布をいただけるなら、どういう品を、どの寸法で用意できるか伺いたいのです。子ども用に仕立てられる厚さのものがあれば」
自分でも、悪くない説明だと思った。妻の配給案と、昨日彼女が持ち帰った話を、そのまま並べただけだ。
ホルストは頷きながら聞いていた。聞いているように見えた。
「なるほど、なるほど。奥様がそうお考えなのは、大変結構なことです」
それから、少し身を乗り出した。
「で、伯爵様は、どのようにお考えで?」
ローレンスは、言葉を失った。
「布の寸法を変えるとなると、こちらも手間がかかります。伯爵様のお考えがそうなら、もちろんいたしますが。奥様のお考えは、伯爵様もご承知なのでしょうか」
男の声には、悪意はなかった。むしろ、気遣いのようなものさえあった。ご婦人が先走って、あとで伯爵様に叱られては気の毒だ、とでも言うような。
自分が領主の顔をしていれば、この男は一言で頷いただろう。今、ローレンスが言ったことは、同じ言葉だった。同じ根拠だった。違うのは、それを口にしているのが誰の顔か、ということだけだった。
一瞬、言ってしまおうかと思った。私がその伯爵だ、と。
けれど、言えば、何もかもが崩れる。妻の名の面談で、妻の身体を使って、領主の権威を振りかざすことになる。
ローレンスは、膝の上で手を重ねた。
「伯爵のお考えでなく、この配給の必要についてお聞きしています」
ホルストは、少し驚いたように瞬きした。
「布の寸法については、担当の者と、領主に確かめたうえで、改めてお返事いたします。今日は、どういう品をご用意いただけそうか、それだけ伺えれば十分です」
男は、厚手の毛織りなら少し在庫がある、と言った。それ以上の約束は、ローレンスもしなかった。面談はそこで終わり、ホルストは最後にもう一度、伯爵様によろしく、と言って帰っていった。
*
相談室に一人残って、ローレンスは帳面の寄付者の欄に、その日の面談を書き留めた。
ホルスト氏、定期面談。厚手の毛織りに在庫あり。寸法の件は保留。伯爵との面会を希望。
書きながら、手が止まった。
伯爵との面会を希望。
今日、あの男が本当に話したかったのは、それだけだった。布のことも、上着のことも、子どもの寸法のことも、伯爵へたどり着くための前置きにすぎなかった。クラリッサはその前置きの役を、月に一度、三年間務めてきたのだ。
自分は、どうだっただろう。
一年目の秋。妻が会議に出たいと言った。ローレンスは、君が無理をする必要はない、と答えた。妻の顔を見て、疲れさせたくないと思った。それは本心だった。
けれど、あのとき自分は、彼女が何を話したいのかを一度でも聞いただろうか。会議で何を見て、何を言いたかったのか。
聞かなかった。心配事として受け取り、自分の中で片づけて、それで終わりにした。
さっきの男と、どこが違うのか。
あの男は妻の説明を聞き流して、伯爵の考えを求めた。自分は妻の希望を聞き流して、彼女のためだと自分が考えたことを返した。どちらも、彼女が何を言おうとしていたのかには、耳を傾けなかった。
ローレンスは、ペンを置いた。
ホルストに何か言い返すことは、たぶんできる。次の面談を断ることも、取引の話を遠ざけることも。けれど、それで何かが変わるとは思えなかった。妻の名前で質問を受け、妻の名前で答えが返ってくる。それが当たり前になるような仕組みを、考えなければならないのだと思った。
夕食のあと、書斎へ向かった。
自分の姿をしたクラリッサが、テオから預かった綴りを机に広げていた。大きな身体を少し丸めて、細かな字を追っている。ローレンスが入ると、彼女は顔を上げた。
「面談は、どうでしたか」
ローレンスは椅子に座り、帳面の寄付者の欄を開いて見せた。
「布の在庫はあるそうだ。寸法の件は保留にした。何も約束はしていない」
それから、少しためらって付け加えた。
「君の説明ではなく、私への取次ぎだけを求められた」
*
クラリッサは、しばらく黙っていた。夫の顔で、夫の目で、彼女がどんな表情をしているのか、ローレンスには読みきれなかった。
「ホルストさんは、いつもそうです」
やがて、低い声が言った。
「悪い方ではありません。寄付も、ちゃんとしてくださいます。でも、私の話は、あなたへの前置きなんです。最初の面談からずっと」
「そうか」
「あの方だけではありません。町の役所の方も、商会の方も。私が話すと、伯爵様はご存じですか、と聞かれます」
ローレンスは、何か言おうとした。
「初めてではない、ということは」
「はい。初めてではありません」
クラリッサは綴りを閉じた。そして、ローレンスをまっすぐ見た。自分の顔が、自分をまっすぐ見ていた。
「あなたにも、私の話を聞いてほしかったです」
静かな声だった。責める調子はなかった。それだけに、まっすぐ届いた。
ローレンスは口を開いた。
あのときは、君を疲れさせたくなかった。父が死んだばかりで、領地も軍も手が回らなかった。君にまで重荷を負わせたくなかった。
どれも本当のことだった。そして、どれも今言うべきことではなかった。
「……どのときのことか、聞いてもいいか」
ローレンスは、別のことを尋ねた。
「話したくない分は、話さなくていい」
クラリッサは少し驚いたように瞬きをした。それから、目を伏せた。
「一年目の、会議のことです」
それだけだった。それ以上は、彼女は話さなかった。ローレンスも、それ以上は聞かなかった。
「明日、私の身体に戻ったら」
ローレンスは言った。
「君の話を聞かせてほしい。君がよければ」
「……はい」
クラリッサはそう答えたが、それで何かが決まったという顔ではなかった。分かってもらえた、という顔でもなかった。ローレンスにも、自分が分かったとは思えなかった。今日ようやく、分かっていなかったことに気づいただけだった。
窓の外は暗く、時計の針は十時を回っていた。あと二刻もすれば、また零時が来る。
ローレンスは、喉の奥にまだ残っている言葉を感じていた。あのときは、君のためだと思った。その一言で、今夜を少しでも軽くできる気がした。
けれど彼は、その言葉を、黙って飲み込んだ。




