第8話「心配する前に、聞いてください」
午前に手渡された席が、午後にはもう遠ざかった気がした。
クラリッサは予定表の上の紙を、しばらく動かせずにいた。夫の字は短く、迷いがなかった。取りやめ。屋敷で面談。それだけで、彼女が朝のうちに考え、受取所の責任者に頼んで三軒の名前をもらい、マルタに同行を頼んだ午後が、一枚の紙の下に消えていた。
胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
今朝の書付には、確かに自分の名前が書いてあった。調査担当。関係者への質問。あれは何だったのだろう。席に座らせて、質問をさせて、それで終わりだったのだろうか。
三年間、こういうときは黙って紙を畳んできた。言っても変わらないことに、言葉を使うのは疲れるだけだったから。
クラリッサは紙を手に取り、立ち上がった。
書斎の扉を叩くと、ローレンスはすぐに顔を上げた。机の上には、午前の会議の資料が広げられたままだった。
「この指示について、伺いたいことがあります」
紙を机に置く。ローレンスはそれを見て、少し背筋を伸ばした。
「市場地区は、昼過ぎは荷車が多い。雪解けで道もぬかるんでいる。去年、あのあたりで荷台が横転して、人が下敷きになったことがある」
声は落ち着いていた。理由を隠しているわけではなかった。本当に危ないと思っているのだ、とクラリッサにも分かった。
「心配してくださったのは、分かります」
それは本当だった。だから、続ける言葉を選ぶのに少し時間がかかった。
「でも、屋敷へ来てもらうなら、行く意味がなくなってしまうんです。受取所の方は、配給証を出したのに取りに来ていない家が多いと言いました。その人たちは、受取所にも来られないのかもしれない。それなら、屋敷にはもっと来られません」
ローレンスの指が、紙の端で止まった。
「ここへ来られる人だけでは、足りない話を聞けません」
クラリッサは一度息を吸った。仕事の話は、ここまでだった。けれど、それだけでは言い足りなかった。
「それに、あなたは私に何も聞かずに、これを決めました」
*
ローレンスは長いあいだ黙っていた。
「危ないと思ったなら、そう言ってくだされば、考えられることはありました」
クラリッサは言った。
「道に慣れた人に一緒に来てもらうとか、荷車の少ない時間にするとか、帰り道を決めておくとか。でも、訪ねること自体をやめてしまったら、私が調べたいことは調べられません」
「……君を、危ない目に遭わせたくなかった」
「はい」
その気持ちを否定するつもりはなかった。
「心配するなら、私の考えも聞いてください」
ローレンスは目を伏せた。机の上の紙と、その横の、今朝自分が署名した書付の写しを見比べている。
「調査担当の範囲を決めたのは、私だった」
低い声だった。
「関係者への質問、と書いた。それなのに、どこで誰に聞くかを、私が勝手に狭めた」
彼は紙を手に取り、二つに裂いた。それから呼び鈴を鳴らし、入ってきたオズワルドに言った。
「市場地区の家を屋敷へ呼ぶ件は、取り消してくれ。もう使いを出していたら、呼び戻してほしい」
オズワルドは一瞬だけクラリッサを見て、それから一礼した。
「まだ出しておりません。承知いたしました」
扉が閉まると、ローレンスはクラリッサに向き直った。
「行くなら、どうしたい」
先に、そう聞かれた。クラリッサは少し驚いて、それから答えた。
「マルタと二人で、と思っていました。三軒とも、市場の外れの同じ通りです」
「あの通りは、道を知っている者がいた方がいい」
ローレンスは少し考えた。
「受取所の責任者の下に、市場地区の生まれの若い係がいる。案内を頼めるか聞いてみる。それから、日が傾く前に戻ってほしい。荷車が増えるのは夕方だ」
「帰り道は、広い方の通りを使います」
「ああ」
それで決まった。時刻と、同行者と、帰り道。どれも、最初の指示を出す前に話していれば、同じように決められたことだった。
クラリッサは書斎を出る前に、一度だけ振り返った。ローレンスは裂いた紙を、屑籠ではなく、机の端にきちんと重ねて置いていた。
*
市場の外れの通りは、確かにぬかるんでいた。案内の若い係は、荷車の轍を避けて歩く場所を、何も言わずに先に踏んでみせてくれた。
一軒目は、配給証をなくしたという家だった。秋の大風の日に、窓から飛んでいったらしい。クラリッサは、紛失、と書いた。新しい証を出せるかどうかは、自分が決められることではない。帰って確かめる、とだけ伝えた。
二軒目の戸を叩くと、出てきたのは腰の曲がった年配の女性だった。足元に、幼い子どもが二人まとわりついている。奥から、もう少し大きな子の咳が聞こえた。
「配給証なら、ありますよ」
女性は棚の上から、角の折れた紙を取ってきた。秋に出された証だった。使われた印はない。
「娘は市場で一日じゅう店に立っています。わたしはこの足だし、この子たちを置いて受取所までは行けません。開いているのは昼の二刻だけでしょう。娘が店を閉めるころには、もう閉まっていて」
女性は証を、クラリッサの手に一度載せ、それからまた自分の胸に戻した。
「証はあります。でも、行く人がいないのです」
クラリッサは、その言葉を帳面に書いた。一軒目の欄には紛失、二軒目の欄には未使用、と分けて。どちらも配給を受けていない。けれど、理由はまるで違う。
「今日ここで、服をお約束することはできません。でも、受け取りに来られなかった事情は、きちんと持ち帰ります」
女性は、それで十分だと言うように頷いた。
三軒目は留守だった。隣の人が、仕事で夜まで戻らないと教えてくれた。
帰り道、受取所の前を通った。扉の横に、案内の板が打ちつけてある。
――配給の受取は、本人が配給証を持参のうえ、昼の二刻のあいだに。
来られる人に向けて書かれた板だった。来られない人が読むことは、たぶん想定されていなかった。
*
屋敷に戻ったのは、日が傾き始める少し前だった。
玄関の広間に、ローレンスが立っていた。書斎から出てきたばかりのような顔で、上着の袖に墨がついている。
「無事か」
「はい。案内の方のおかげで、ぬかるみに足を取られずに済みました。帰りも広い通りを使いました」
クラリッサは帳面を開いて、三軒のことを短く話した。紛失の家、未使用の家、留守の家。受取所の案内板のこと。ローレンスは黙って聞き、最後に、そうか、とだけ言った。
それで終わりにすることもできた。無事に帰り、調べたいことも調べられた。夫は指示を撤回してくれた。今日はうまくいった、と言って、部屋へ戻ればいい。
けれど、クラリッサは帳面を閉じなかった。
「今日は大丈夫でした」
言ってから、指先が少し冷たくなった。
「でも、また同じことが起きるのは怖いです。今朝、席をいただいて、名前を書いていただいて、それが昼にはもう覆されていました。一度もらったものが、私の知らないところでまた取り上げられるのは、怖いです」
ローレンスは、すぐには答えなかった。
謝るのでも、言い訳をするのでもなく、彼はしばらく彼女の顔を見ていた。それから、ゆっくりと言った。
「これからは、変える前に、君に確かめる」
クラリッサは頷いた。
「ありがとうございます。……でも、まだ、信じきれるかは分かりません」
「それでいい」
ローレンスの声は低く、静かだった。
「信じてもらえるかどうかは、私がこれからすることで決まる」
クラリッサは帳面を胸に抱えて、相談室へ戻った。
机の上に、倉庫の写しと、午前の名簿の写しが並んでいる。名簿には、世帯主と人数と枚数と受領印。昨日は、そこに年齢と寸法の欄が足りないと思った。
今日の帳面には、別のことが書いてある。紛失。未使用。昼の二刻。娘は店に立っている。足の悪い祖母。置いていけない子ども。
クラリッサは名簿の余白に、小さく書き足した。
――受け取りに来られるか。誰が来られるか。
足りないのは、服の寸法だけではなかった。




