第7話「私の会議の席」
夫の上着を借りなくても、同じ資料を読める席が欲しかった。
零時の鐘のあとで、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝、目を覚まして最初にしたのは、自分の指で髪を梳くことだった。それから相談室の机に、倉庫の写しを広げた。
昨日、夫の姿で書斎に座っていたとき、テオは迷わず綴りを差し出し、オズワルドは何も聞かずに使いを走らせた。あの声で頼めば、誰もが動いた。
今日の声では、たぶんそうはいかない。
写しの最後の頁に、小児用上着二箱の行がある。出庫の欄は空白で、保留とだけ書かれている。その隣に、昨日は見落としていた小さな書き込みがあった。乙の三。何かの区分なのか、棚の番号なのか、分からない。
「オズワルド。この乙の三というのは」
「さて……倉庫の符号でございましょうか。私には」
「倉庫の管理役の方は、今日はお戻りですか」
「はい。午前の冬支度の会議に出られるはずです」
クラリッサは写しから顔を上げた。
「その会議で、直接お尋ねしたいのですが」
オズワルドは少し困ったように微笑んだ。
「それでしたら、旦那様にお願いして、会議の席でお尋ねいただけばよろしいかと。お答えは後で私がお伝えいたします」
親切な申し出だった。三年間、何度もそうしてもらってきた。
そして三年間、聞きたかったことの半分は、戻ってこなかった。
「伝言だと、質問が一つ答えられたところで終わってしまうんです。その答えを聞いて、次に何を聞くか決めたいので」
クラリッサは写しを畳み、立ち上がった。
*
ローレンスは書斎で、会議の資料に目を通していた。顔色は昨日より少しよかった。自分の身体で眠れたのだろう。
「お願いがあります」
彼は顔を上げた。
「今日の冬支度の会議に、出席させてください」
一年目の秋にも、同じことを言った。言葉はほとんど同じだった。違うのは、手に倉庫の写しを持っていることと、聞きたいことが具体的に決まっていることだけだった。
「あなたの隣に座りたいのではありません。倉庫の管理役の方に、直接お尋ねしたいことがあるんです」
ローレンスは、写しの乙の三の書き込みを見た。それから、少しのあいだ黙った。何かを思い出しているような沈黙だった。
「出てよい」
短い答えだった。クラリッサは、すぐには頷かなかった。
「出て、何をすればいいのでしょう」
「何を、とは」
「私は何の資料を見て、誰に質問して、誰に報告すればいいのでしょう。何を決めてはいけないのでしょう」
ローレンスの眉がわずかに寄った。答えられないのではなく、そこまで考えていなかったという顔だった。
「出てよい、と言っていただけるのはありがたいです。でも、それだけだと、管理役の方は私に答えていいのか分からないと思います。私も、どこまで聞いていいのか分かりません」
オズワルドが、戸口で控えめに咳払いをした。
「旦那様、それでしたら、書付を一枚お作りになっては」
三人で机を囲んだ。ローレンスが言い、クラリッサが補い、オズワルドが書いた。
冬衣配給の調査担当。期間は今月末まで、延長はその時に改めて相談する。担当の範囲は、配給に関わる記録の閲覧、関係者への質問、調査結果の報告。報告先は領主。
「支出や、配給の仕方を変える決定は、含めないでください」
クラリッサが言うと、ローレンスは頷いた。
「それは別に決める」
「はい。私は、何が起きているのかを調べるところまでです」
オズワルドがペンを止めた。
「お手当てのことは、いかがいたしましょう」
ローレンスがクラリッサを見た。クラリッサは少し迷った。
「今日決めなくても構いません。でも、仕事として書いておいてください。善意のお手伝いではなく」
「では、手当ての条件は追って定める、と」
オズワルドが書き添えた。
「いつまで、何の担当として出るのかを、書いてください」
そうクラリッサが言ったのは、書付の最後の一行の前だった。オズワルドが、担当者の名の欄に、クラリッサ・エルヴェインと書いた。夫人、とは書かなかった。
ローレンスが署名した。
紙はまだ乾ききっていなかった。クラリッサはそれを、倉庫の写しと一緒に胸に抱えた。
*
会議室には、長い卓を囲んで七、八人が座っていた。民政局の配給担当の女性、倉庫の管理役の年配の男、町の受取所の責任者、テオ。オズワルドが壁際に控えている。
クラリッサは夫の隣ではなく、卓の端の、書記の向かいの席に座った。何人かがちらりとこちらを見た。誰も何も言わなかった。
冬支度の報告がいくつか続いたあと、ローレンスが言った。
「冬衣の配給について、調査担当から質問がある」
クラリッサは写しを開いた。
「倉庫の記録に、小児用上着二箱が、秋から保留のまま残っています。この保留を決めたのはどなたでしょう。それと、横に書かれている乙の三というのは、何の符号でしょうか」
管理役の男は、写しの頁を見て、それから顔を上座へ向けた。
「閣下、その件でございますが――」
男は、夫に向かって説明を始めようとした。
「その質問は、クラリッサへ答えてください」
ローレンスの声は、大きくはなかった。言い直しもせず、質問の中身を繰り返すこともしなかった。ただ、答える相手を指しただけだった。
管理役の男は一瞬口ごもり、それから、クラリッサの方へ向き直った。
「……乙の三は、仕分けの符号です。届いた品を、送り先の指示が来るまで置いておく棚の番号でもあります」
「指示を出すのは、どなたですか」
「それは、民政局から割当ての書類が来まして――」
男は配給担当の女性を見た。女性は帳面をめくり、確かめないと分からない、と答えた。
クラリッサは一つずつ書き留めた。乙の三は仕分けの符号で、棚の番号でもある。指示は民政局の割当て書類から。その書類に小児用が載っていたかどうかは、まだ分からない。
答えはそろわなかった。けれど、どこを見に行けばいいのかは見えた。
ふと視線を上げると、ローレンスがこちらを見ていた。何かを言いかけて、やめたような顔だった。クラリッサは目を伏せた。今の一言が嬉しくなかったと言えば嘘になる。けれど、一言で三年が消えるわけでもなかった。
最後に、受取所の責任者が付け加えた。
「そういえば、市場地区は、配給証を出したのに受け取りに来ていない家が、他より多いのです。理由までは分かりませんが」
*
会議が終わると、クラリッサは相談室へ戻り、自分の予定表を開いた。
屋敷へ来られる人の話は、もう聞いた。ミナのように、燃料小屋のついでに寄れる人はまだいい。けれど、受取所にすら来られない家があるなら、その人たちの話は、ここで待っていても聞こえてこない。
今日の午後、市場地区。マルタに同行を頼む。訪ねる家は、受取所の責任者から名前を三軒もらった。
書き終えたところで、ローレンスが戸口に立った。
「市場地区へ行くのか」
「はい。午後に」
ローレンスは予定表を覗きこみ、少し顔をしかめた。
「あのあたりは、昼過ぎは荷車で道が混む。雪解けで足元も悪い」
クラリッサはペンを置いた。
「この予定は、私が必要だと考えて入れました」
ローレンスは何か言おうとして、口を閉じた。それから、分かった、とだけ言って書斎へ戻っていった。何が分かったのかは、言わなかった。
一人になると、クラリッサは今朝の書付を取り出した。担当者の名の欄に、自分の名前がある。会議の記録にも、調査担当として名前が載るはずだ。
嬉しかった。三年前に欲しかったものの、ほんの端に手が届いた気がした。
同時に、胸のどこかが冷たかった。席はもらえた。けれど、その席で決めたことが、そのまま通るとは限らない。今までずっと、そうだったように。
昼の鐘が鳴って、しばらくしたころだった。
オズワルドが、申し訳なさそうな顔で一枚の紙を持ってきた。
「旦那様から、お伝えするようにと」
紙には、夫の字で短く書かれていた。
――市場地区への訪問は取りやめ。該当の家には屋敷まで来てもらい、こちらで面談とする。
クラリッサはその紙を、自分の予定表の上に置いた。
今朝自分の手で書いた、市場地区、という四文字が、夫の字の下に隠れて見えなくなった。




