第6話「伯爵様にも、分からないこと」
同じ低い声が出ても、地図の赤い線の意味は分からなかった。
零時の鐘の途中で、意識はまた途切れた。気がつくと、クラリッサは控室の窓際の椅子に座っていた。膝の上には大きな手があり、向かいの椅子では、自分の姿のローレンスが、ゆっくりと顔を上げたところだった。合言葉を交わし、エダの記録に時刻を書き込み、それぞれ眠った。二度目だった。
朝、夫の書斎で、クラリッサはオズワルドの立会いのもと、届いた書類を受け取っていた。倉庫からの返事はまだない。保留の理由を知っているという「上の者」は、今日は町の外へ出ているらしかった。
定型の報告書なら、受け取って日付を記すだけでいい。昨日、二人でそう決めていた。
扉が叩かれた。
「閣下、お加減はいかがですか」
入ってきたのは、軍服の若い男だった。二十代の終わりくらいだろうか。腕に地図の筒を抱え、目の下に薄い隈がある。オズワルドが小声で、副官のテオ・ランセル様です、と教えた。
「橋の補強の件で、巡回路を一部変えたいのです。補強が終わるまで、北の拠点への道は東回りになります。その間、こちらの見張りをどう組むか、閣下のご判断をいただきたく」
テオは机の上に地図を広げた。
国境沿いに、赤い線と青い線が何本も走っていた。線の脇には、数字と、略号らしい文字が小さく書きこまれている。点線の丸、三角の印、塗りつぶされた四角。どれが拠点で、どれが見張りで、どれが道なのかも、クラリッサには分からなかった。
テオは待っていた。夫の顔を見て、夫の答えを。
何か言えば、それはこの人にとって、領主の言葉になる。
たとえば、それでいいと思う、と言ったら。たとえば、もう少し人を増やしたら、と言ったら。この人はそのまま動くのだろう。兵が動き、見張りの場所が変わる。その先で何が起きるのか、自分には想像もつかない。
夫の声は、低くてよく通る。昨日の朝、廊下で侍女を振り向かせたように。この声で口にしたことは、命令として響いてしまう。
クラリッサは、地図から手を離した。
「今ここでは、判断を出せません」
テオの眉が、わずかに動いた。
「……何か、問題がございましたか」
*
「オズワルド」
クラリッサは家令を振り返った。
「クラリッサを、呼んでいただけますか」
テオの顔に、はっきりと戸惑いが浮かんだ。オズワルドは一瞬だけ目を見開き、それから何も言わずに一礼して出ていった。
「ランセルさん、申し訳ありません。地図はそのまま置いていてください。少しだけ待っていただけますか」
自分の口調が、夫のものではないことは分かっていた。テオもそれに気づいたらしい。椅子を勧められても腰を下ろさず、筒を握ったまま立っていた。
やがて、廊下から軽い足音が近づいてきた。裾を踏まないよう、歩幅を詰めた足音だった。
自分の姿をしたローレンスが、書斎に入ってきた。
テオは灰色の普段着の夫人を見て、それからクラリッサを――領主の顔を見た。
「閣下、これは……奥様に、軍務のお話を?」
責めているのではなかった。ただ、何が起きているのか分からないという声だった。
ローレンスが、クラリッサを見た。どうする、と問う目だった。
隠すことはできた。体調が悪いと言って、テオを帰らせることも。今日をやり過ごし、明日、夫が自分の身体に戻ってから判断を伝えることも。けれど、もし今日のうちに国境で何かがあったら。テオがこの部屋に駆けこんできて、この顔に向かって、どうしますかと聞いたら。
分からないと言えなければ、誰かが怪我をする。
「ランセルさん。信じていただけないかもしれませんが、聞いてください」
クラリッサは言った。
「この身体の中にいるのは、ローレンスではありません。妻のクラリッサです。彼は、あちらにいます」
テオは動かなかった。冗談を聞かされたときの顔ですらなかった。
オズワルドが進み出て、一昨日の夜から書き留めてきた記録を机に置いた。時刻、医師の所見、二人がそれぞれ書いた一日の出来事。
「私どもも、最初は信じられませんでした」
家令の静かな声に、テオの肩がわずかに下がった。
「……閣下に、お伺いしてもよろしいですか」
テオは、灰色の普段着の夫人に向き直った。
「三日前の夜、橋の上で。荷車を引き上げたあと、閣下は私に何とおっしゃいましたか」
「拠点へは先に戻ってくれ、私は屋敷へ戻る、と言った。お前は、今日が何の日か知っていたから、黙って頷いた」
細い声で、ローレンスは答えた。
テオは長いあいだ黙っていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「では、今ここで、私はどなたの指示を伺えばよろしいのですか」
クラリッサは、夫の大きな手を机の上で握った。
「分からないまま、あなたの名前で命令はできません」
それは、テオに向けた言葉でもあり、夫に向けた言葉でもあった。
*
ローレンスは地図の前に立った。机の縁は、妻の身体には高すぎる。彼は少し背伸びをするようにして、赤い線を指でたどった。
「東回りにすると、ここの見張りが半日空く。第三拠点から二人回せ。代わりに、第三拠点の夜番を一刻ずらす。補強が終わるまでだ」
「承知しました」
テオは即座に書き留めた。それから顔を上げ、言いにくそうに付け加えた。
「閣下。今後、同じようなことがあった場合は」
ローレンスは少し考えた。
「緊急の時は、お前の判断で動いてくれ。今のお前の権限の範囲でいい。変更が要るものは、必ず私本人に確認しろ。どちらの身体にいてもだ」
「どうやって、閣下ご本人だと」
「合言葉を決める。お前と私だけのものを。あとで伝える」
クラリッサはそれを聞かなくていい、と思った。夫と副官のあいだのことだ。
ローレンスは、クラリッサの方を見た。それから、テオに向かってはっきりと言った。
「この顔で返事をしたからといって、私の命令にはしないでくれ」
自分の顔の方を指して、彼は言った。
「声も、印章も、同じだ。だが、中が違えば判断も違う」
テオは、夫と夫人の顔を順に見て、頷いた。
「では、私は何をすればいいでしょう」
クラリッサが尋ねると、ローレンスとテオが同時にこちらを見た。
「軍の仕事は、私には分かりません。お手伝いできるのは、書類を受け取ることと、整理することくらいです」
「それで頼む」
ローレンスは言った。
「それと、君の冬衣の調べに関わりそうな記録があれば、テオから受け取ってくれ。輸送の帳簿だ」
クラリッサは頷いた。自分にできることの範囲が決まると、肩の力が少し抜けた。
*
テオは書斎の隅の棚から、綴りを二冊取り出して机に置いた。
「こちらが、補給隊の荷馬車の記録です。いつ、何を積んで、どの拠点へ。こちらは」
もう一冊を指す。
「民政の側で使っている、配給の輸送記録です。受取所へ服や穀物を運ぶ便です。道は、町外れまではほとんど同じです」
クラリッサは二冊を並べて開いた。補給隊の記録は、出発の時刻が細かく書かれていた。積荷の欄には、穀物、燃料、薬、毛布。末尾に、予備、と書かれた欄がある。
「この予備というのは」
「拠点に必ず残しておく分です。雪で道が閉じた時のために。これは減らせません」
テオの声には迷いがなかった。
「荷馬車に空きがあることもありますか。たとえば、帰りに」
「あります。ただ、空いているからといって、民間の荷を勝手に載せることはできません。何かあった時の責任が、どちらにあるのか決まっていないので」
クラリッサは、倉庫の棚の二箱を思い浮かべていた。子ども用の上着。運ぶ手段があれば、と一瞬思った。けれど、その考えが浅いことも、すぐに分かった。
「まず、何がどれだけ要るのかと、運べる枠がどれだけあるのかを、別々に読むといい。混ぜると、どちらも分からなくなる」
ローレンスの言葉を、クラリッサは手元の紙に書き留めた。予備とは何か。誰が決めるのか。空きの責任は誰が持つのか。分からない言葉を、ためらわずに一つずつ。
「道は同じでも、荷物の責任は同じではないのですね」
テオが、少しだけ笑った。初めて見る、気の抜けた顔だった。
「おっしゃる通りです。奥様」
それから彼は、自分が誰に向かって奥様と呼んだのかに気づいて、困ったように咳払いをした。
二冊の綴りが、夫の机の上に並んでいた。どちらの表紙にも、町外れを抜けて北へ伸びる同じ街道の名が書いてある。
けれど、その上に記された部署の名は、片方が国境守備隊、もう片方が民政局だった。




