第5話「足りているはずの冬服」
「足りない」と言った人を、まず疑わないでおこうと決めた。
クラリッサがそう心に置いたのは、屋敷の裏手で、燃料の荷車が戻ってくるのを待っているときだった。
前夜の騒ぎのあと、明け方まで眠った。目を覚ますと、日はもう高かった。エダが一度部屋に来て脈をとり、記録の紙に何かを書き足していった。朝食のあと、夫と二人でマルタに事情を話した。侍女長は長いあいだ黙っていたが、最後に、では明日のお召し替えはどちらのお部屋に伺えばよろしいのでしょう、とだけ尋ねた。それで十分だった。
裏庭の燃料小屋の前に、昨日の母親が立っていた。燃料券を薪に引き換えに来たのだ。隣で、男の子が大人用の上着の袖を引きずっている。
「少しだけ、お時間をいただけますか。中で温まりながら」
*
相談室の暖炉の前で、母親はミナ・ハルトと名乗った。男の子はノエル、七つになったばかりだという。
「昨日のお話は、記録してあります」
クラリッサは机の右の帳面を開いた。昨日の欄には、自分のものではない、角ばった字が並んでいる。扶助金は申請済み、支給は来月初め。燃料券一週間分。夫の字だった。
「扶助金のことは、こちらで続けて見ておきます。今日伺いたいのは、別のことです。冬の衣類について」
ミナの肩がわずかに強ばった。
「秋の配給で、上着はいただきました。二枚、ちゃんと」
「はい。それは名簿にもあります」
クラリッサは帳面の別の頁に、扶助金、と書いた見出しと並べて、衣類、と新しい見出しを立てた。二つの用件は、同じ家族のことでも、別々に書いておかなければ混ざってしまう。
「その上着を、見せていただいてもいいですか。ノエルさんが着ているものを」
母親は少しためらい、それから息子の上着を脱がせた。クラリッサはそれを机に広げた。大人の男物だ。肩幅はノエルの倍近くあり、袖は肘のずっと先まで余る。襟ぐりは、子どもの頭がそのまま通り抜けそうなほど広い。
「二枚とも、大人の寸法でしたか」
「はい。わたしの分と、この子の分と。この子のはいちばん小さいのを選んでもらったんですけど」
ミナは言葉を探し、それから、決めたように顔を上げた。
「もらっていないと言いたいんじゃないんです。二度ももらおうなんて、思っていません。ただ、着られなかったんです」
「分かっています」
クラリッサは上着の袖を指で測った。どこで余り、どこを詰めればいいのか。三年のあいだに、何十枚と見てきた形だった。暮らしの苦しさを細かく話してもらう必要はなかった。上着そのものが、足りないものを教えていた。
「同じ受取所で配給を受けた方を、ほかにご存じですか」
ミナは近所の二軒の名を挙げた。クラリッサはその名に覚えがあった。マルタが昨日運んできた、背丈を書いた紙片つきの上着の持ち主たちだった。
*
昼過ぎ、家令のオズワルドが名簿を持ってきた。秋の冬衣配給の、町外れの地区の分だ。ローレンスも、少し遅れて相談室へ入ってきて、窓際に立った。
名簿は整っていた。世帯主の名、人数、配った枚数、受領の印。どの行にも、抜けはない。
「ハルトさんのお宅は、ここですね」
人数二名、上着二枚、受領済み。昨日、夫の姿で報告書の上に見たのと同じ数字だった。
「ノエルさんに合う服を選ぼうとしたら、この紙のどこを見ればいいでしょう」
オズワルドは名簿を覗き込み、首を傾げた。
「人数が二名でございますから、二枚お渡しすれば」
「年齢と寸法を書く欄は、ありませんか」
「ございません。配給の規則では、世帯ごとの人数に応じて枚数を割り当てることになっております。それに従って配っております」
家令の声には、少しだけ身構える響きがあった。規則を破ってはいない、と言いたいのだ。実際、破ってはいなかった。
「規則に反しているとは思っていません」
クラリッサは名簿の欄を指でなぞった。
「ただ、この紙だと、二名がどういう二人なのか分からないんです。大人二人でも、母親と七つの子でも、同じ二名になります。だから、渡す側も選びようがない」
窓際で、ローレンスが小さく息を吸う音がした。
「一枚あることと、着られることは違います」
オズワルドはしばらく名簿を見つめていた。それから、規則を作ったときにはそこまで考えていなかったのでしょう、と言った。誰を責めるでもない、困ったような声だった。
*
クラリッサは机の脇の籠から、昨日の三着のうち一着を取り出した。袖と襟を直しかけた上着だ。それから、引き出しから一枚の紙を出して、名簿の横に置いた。三日前の、黒糸と針の控えだった。
「大人の上着を子ども用にするには、袖を詰めて、襟ぐりを小さくして、肩を少し落とします。一着、手の早い人で半日。糸と針は、この控えの分くらい」
木箱の中の他の紙は出さなかった。今ここで要るのは、一着を着られるようにするのに何がかかるか、ということだけだった。
「この三年、こういう上着を直してきました。配給のあとで、着られないからと持ちこまれる服を」
「三年……」
オズワルドが呟いた。
「その分は、名簿には出てきません。直してしまえば、足りなかったことも見えなくなります」
クラリッサは上着を畳んだ。
「直せたので困らなかった、ということにはしたくありません」
窓際のローレンスが、そこで初めて口を開いた。
「名簿だけでは、もう一つ分からないことがある」
クラリッサは振り向いた。
「倉庫に、子どもの寸法の服がそもそもなかったのか。あったのに渡らなかったのか。この紙からはどちらとも言えない」
否定されたような気がして、一瞬、言葉が喉で止まった。けれど夫の顔を見ると、彼はクラリッサの話を退けようとしているのではなかった。名簿を見て、本当に分からないところを指しているのだった。
それは、確かに分からなかった。
渡す側の名簿を見ても、倉庫の中身は見えない。
「……では、倉庫の記録も見せていただけますか。何が入って、何が出ていったのか」
*
「どこまでの書類を、私が見てよいのでしょう」
クラリッサはオズワルドに尋ねた。家令は少し考え、冬衣の配給に関わる記録なら、と答えた。正式な取り決めではない。けれど、今日のところはそれで十分だった。
ローレンスは使いを倉庫へ走らせた。冬衣の入庫と出庫の記録を、手を加えずにそのまま残しておくこと。控えがあれば、写しを屋敷へ届けること。
「すぐに足りない家へ配り直しましょうか」
オズワルドが言った。クラリッサは首を振った。
「まだ、何を配ればいいのか分かりません」
帳面に二つの見出しを書いた。受け取った記録。送り出した記録。倉庫に入った服の数と寸法。そこから受取所へ出ていった服の数と寸法。その二つを並べて初めて、どこで何が食い違ったのかが見えるはずだった。
午後の日が傾きかけたころ、倉庫係の若い男が、写しの束を抱えて屋敷へやってきた。慌てて書いたらしく、字が少し乱れている。
クラリッサは一枚ずつめくった。大人用の上着、何箱。外套、何箱。毛織の肩掛け、何束。入庫の欄と出庫の欄に、それぞれ数字が並んでいる。
最後の頁で、指が止まった。
小児用上着、二箱。
入庫の欄には日付と数があった。けれど出庫の欄は空白で、横に小さく、保留、とだけ書かれていた。
「これは」
倉庫係は帽子を握りしめた。
「秋からずっと、棚に置いてあります。どこへ回すか、指示がなかったもので」
「なぜ、指示がなかったのですか」
「それは……自分には分かりません。上の者に聞いてみないと」
ローレンスが写しを受け取り、黙って保留の二文字を見つめた。オズワルドは名簿と写しを見比べ、顔を曇らせた。
クラリッサは、机の上の大人用の上着と、写しの空白の欄を並べて見た。
「配る前に、残っていた理由を確かめたいです」
怒りがなかったわけではない。けれど今それを口にしても、ノエルの上着の袖は短くならない。どこで止まったのかを知るほうが先だった。
町外れの家では、子どもが大人の袖を三重に折って冬を越そうとしている。
その子に合う服は、ないのではなかった。屋敷から歩いて半刻の倉庫の棚に、秋からずっと、届く先を待ったまま置かれていた。




