第4話「零時の約束」
昨夜止まったと思った時計は、同じ速さで夜を刻んでいた。
控室の隅の振り子時計は、十一時を少し過ぎていた。クラリッサは夫の身体のまま、窓際の椅子に浅く腰かけていた。部屋の反対側、扉の近くの椅子には、自分の姿をしたローレンスが座っている。二人のあいだの棚の上には、布を外した銀の台座があり、二つの指輪が昨夜のまま並んでいた。
「もう一度、確かめさせてください」
クラリッサは言った。
「昨夜、私は寝台で時計の鐘を聞いていました。二つまで数えたところで、音が途切れました。気がついたら朝でした」
「私も同じだ。寝室で、寝台の端に腰かけて考えごとをしていた。鐘が鳴り始めたのは覚えている。その先はない」
それぞれの寝室に戻ったあと、二人とも眠らずにいたのだ。クラリッサは、自分が目覚めたのが夫の寝台の上だったことを思い出した。あの夜、夫の身体はそこにあった。
「鐘が鳴るのは、零時と正午だけです」
それが、二人で昼のうちに考えた、ただ一つの手がかりだった。何かが起きたのが夜の鐘の時なら、今夜も同じ時に、何かが起きるかもしれない。起きないかもしれない。
「試せることは、待つことだけですね」
「台座には触らない。壊れたら、どうなるか分からない」
だから入浴も外出もやめて、二人ともここにいる。転んでも危なくないよう、椅子はどちらも肘掛けのあるものにした。
時計の針が進むのが、ひどく遅かった。クラリッサは夫の大きな手を膝の上で握ったり開いたりした。今日一日、この手は重かった。肩も背中も、朝から鈍く張っていた。昨夜の事故で、この身体はほとんど眠っていなかったのだろう。
十一時五十分を過ぎたころ、ローレンスが言った。
「もし何も起きなかったら」
「明日、また考えます」
針が重なる。
最初の鐘が鳴った。二つ目。三つ目を数えようとしたとき、音が遠のいた。
――ほんの数呼吸。
鐘の音が戻ってきた。九つ、十。クラリッサはまばたきをした。
視界が低い。膝の上の手が細い。袖口から見えるのは、灰色の普段着の布だった。
顔を上げると、正面の窓際の椅子に、黒髪の男が座っていた。今まで自分が座っていたはずの椅子に。
「……ローレンス」
自分の声だった。高さも響きも、二十五年聞いてきた声だった。
窓際の男が、ゆっくりと自分の手を見下ろし、それから顔を上げた。
「戻ったのか」
低い、彼の声だった。
クラリッサは立ち上がらなかった。立てば膝が震えそうだったし、相手のもとへ駆け寄りたいのかどうかも、自分で分からなかった。だから座ったまま、扉の脇の椅子の背を指でなぞった。
「私はここに座っていませんでした。でも、私の身体はここに座っていた」
「私も、さっきまで向こうの椅子にいた」
「動いて戻るのではないのですね。意識だけが、戻った」
口に出すと、少しだけ寒気がした。今朝、夫の寝室で目覚めたのも同じことだったのだ。眠っている間に運ばれたのではない。もともと夫の身体がそこにいた、というだけだった。
「声は出ますか。手は」
「問題ない。君は」
「大丈夫です。……肩が、少し軽いです」
ローレンスは自分の肩に手をやった。それから、何かを決めたように顔を上げた。
「オズワルドを呼ぼう。それから、エダ先生も」
「今夜のうちに、ですか」
「次の零時に、また起きるかもしれない。私たち二人だけで抱えておくには、分からないことが多すぎる」
クラリッサは、少し迷ってから頷いた。
*
家令のオズワルドは寝間着の上に上着を羽織って現れた。少し遅れて、屋敷の離れに住む医師のエダ・モールが、往診鞄を提げてやってきた。真夜中の呼び出しに、二人とも、どちらかが倒れたのだと思っていたらしかった。
「どこもお怪我はないのですか」
「ありません。ただ、聞いていただきたいことがあります」
クラリッサは椅子に座り直した。
「分かることと、まだ分からないことを分けて話します」
昨夜の零時から今朝までのこと。目覚めた部屋。互いの姿。今夜、時計の前で待っていたこと。クラリッサが話し、ローレンスがところどころ補った。二人とも、昼のうちに起きたことをそれぞれ紙に書き留めてあり、それを医師と家令の前に並べた。
オズワルドの顔は、話が進むにつれて白くなった。
「失礼を承知で申し上げます。にわかには――」
「信じられないと思います。だから、確かめてください」
家令は少し考え、まずローレンスに尋ねた。
「今日の午後、相談室で、私は奥様に何をお願いされましたか」
「受け付けた用件と、担当の決まっていない用件を、分けて書き出してほしいと」
オズワルドはクラリッサの方を向いた。
「奥様は、覚えていらっしゃいますか」
「いいえ。私はそのとき、隣の小部屋にいました。あなたが何を頼まれたのかは、知りません」
家令は長いあいだ黙っていた。それから、組んでいた手をほどいた。
「……では、旦那様。明日以降のご予定と決裁は、どのように扱えばよろしいのでしょう。どちらのお身体に、どちらがいらっしゃるのか、私どもには見分けがつきません」
エダは鞄を膝に置いたまま、静かに言った。
「先に申し上げておきます。私は魔法のことは分かりません。何が起きたのかを説明することも、止めることもできません。できるのは、お身体を診て、変化を記録することだけです」
「それで十分です」
クラリッサは答えた。少なくとも、今夜はそれで。
*
エダは二人を順に診察した。脈をとり、目の奥を見て、手を握らせる。それから、紙を二枚取り出し、それぞれの上に名前を書いた。
「睡眠、食事、薬。それから疲れや痛み。お身体の持ち主ごとに記録します。中にどなたがいらっしゃるかとは別に」
クラリッサは今日一日、夫の身体が重かったことを話した。肩と背中の張り、目の奥の鈍さ。エダは頷き、ローレンスの名の紙にそれを書き込んだ。
「昨夜はほとんど眠っていらっしゃらないでしょう。それは中身が替わっても、お身体に残ります」
「替われば、治るということは」
「ございません。少なくとも、そう考える理由はどこにもありません」
医師はきっぱりと言った。
「普段、お薬は」
「私は飲んでいません」
「私も常用はない。寒い日に、肩に膏薬を貼るくらいだ」
それも書き込まれた。もし次にまた替わったら、膏薬を貼るのはクラリッサの手になるかもしれない。そう思うと、紙の上の小さな一行が急に重みを持った。
「あなたの身体と私の身体を、別々に記録してください」
エダが頷くのを見て、クラリッサは夫に向き直った。
「もう一度替わった時のために、決めておきたいことがあります」
「言ってくれ」
「重要な決裁と、財産のことは、相手に無断でしないこと。それから――」
一度言葉を切った。
「相手の身体で、相手の同意なく、親密なことをしないこと」
ローレンスは目を逸らさずに頷いた。
「約束する。私からも頼む」
オズワルドが紙を一枚足し、合言葉の欄と、時刻の欄を作った。婚約時の本の題を、合言葉にすることにした。零時の前には、二人とも安全な部屋へ戻り、座って待つ。
侍女長のマルタには、明日の朝、二人から直接話す。着替えや身の回りのことで、どうしても手を借りなければならないからだ。それ以上の人には、まだ話さない。
書き終えた紙を見下ろして、クラリッサは息を吐いた。何も解決していない。けれど、不安の形が紙の上に並んでいる分だけ、少し扱いやすくなった気がした。
*
「旦那様、その台座は、婚礼の際にお使いになった物でございますね」
オズワルドが棚の上の銀の台座を見ていた。
「父の代からの婚礼の飾りだと聞いている」
「確かめてまいります。古い品には、目録の番号が刻まれているはずです」
家令は燭台を手に、台座には触れず、身を屈めて裏を覗き込んだ。脚の内側に、小さな刻印があった。数字と、見慣れない記号。オズワルドはそれを書き写し、部屋を出ていった。
戻ってきたのは、半刻ほど経ってからだった。腕に、背表紙のすり切れた分厚い帳面を抱えている。
「婚礼用品の棚には、ございませんでした」
彼はそう言って、帳面を卓に置いた。表紙には、旧領政道具目録、と書かれていた。
「先々代より前の、領地の政務に使われた道具の目録です。同じ番号が、こちらに」
黄ばんだ頁の一行を、家令の指が示した。品名の欄はかすれて読めない。用途の欄に、短い語が二つだけあった。
――共同執政の研修。
――封印。
その下に、続きがあったらしい跡がある。けれど墨は薄れ、紙は端から欠けていた。
「封印、というのは」
ローレンスが呟いた。
「止める手段があるということか」
「分かりません」
クラリッサは首を振った。
「封印という言葉があっても、戻れるとはまだ言えません。研修というのも、何のことか」
誰も答えなかった。オズワルドは、関連する図面が書庫に残っていないか明日探すと言い、エダは朝にもう一度二人を診ると言った。台座は今の場所から動かさず、布をかけ直すだけにした。二つの指輪も、そのままにしておいた。
時計は一時半を指していた。
部屋を出る前に、クラリッサはもう一度だけ振り返った。布の下に、銀の台座の輪郭が透けて見えた。
三年前、祝いの席で二人の指輪を載せたあの飾りは、婚礼の品として、この屋敷のどこにも記されていなかった。




