第3話「明日に回しても消えない」
妻の椅子に座ると、机の上の三通の封書が近すぎるほど目に入った。
視線の高さが違うのだ、とローレンスは気づいた。いつもなら見下ろす位置にある物が、すぐ目の前にある。机の縁は胸に近く、ペン立ての羽根が頬をかすめそうだった。
小さな相談室だった。暖炉には火が入り、窓辺に布の見本と糸の箱が並んでいる。この部屋に入ったのは、たぶん結婚してから二度目だった。
向かいの椅子に、若い母親が浅く腰かけていた。膝の上に七つほどの男の子を抱いている。子どもは大人用の上着を着せられ、袖を何重にも折り返していた。
「奥様、お加減が悪いところに押しかけて、申し訳ございません」
「いえ。……お話を伺います」
声を出すたびに、自分の喉ではない細い響きが返ってくる。ローレンスは膝の上で手を重ねた。妻がよくそうしていたのを思い出したからだ。
「夫が国境で亡くなって、遺族の扶助金をいただけることになったんです。でも、まだ届かなくて。家の薪が昨日で尽きました」
扶助の制度なら知っている。署名したのは自分だ。ローレンスは少し安心して口を開いた。
「扶助金の申請は、町の役所で――」
「申請は、ひと月前に済ませました」
母親は膝の上の子を抱き直した。
「支給は来月の初めだと言われています。それまで、火を焚かずには待てません」
ローレンスは言葉に詰まった。制度は正しく動いている。申請も受理されている。それでも、今夜この家に火はない。
来月の初めまで、あと十日以上あった。
「……少し、お待ちいただけますか」
隣の小部屋で、自分の姿をしたクラリッサが待っていた。大きな身体を窮屈そうに椅子へ収め、報告書の束を膝に載せている。ローレンスが声を落として事情を話すと、彼女は低い声で即座に答えた。
「扶助を待っている方には、燃料券をお渡ししています。左の引き出しの青い綴りです。一世帯につき一週間分。支給日まで足りなければ、もう一度来ていただきます」
「それを、私が渡してもいいのか」
「はい。今までと同じ決まりの範囲なら」
それ以上の約束はしないでください、と彼女は付け加えた。ローレンスは頷いた。
相談室へ戻り、青い綴りから一枚を切って母親に渡した。母親は何度も頭を下げた。マルタが厨房で温かいものを、と母子を連れ出していく。
ようやく一件、とローレンスは息をついた。
その背後で、扉がまた叩かれた。
*
入ってきたのは若い侍女だった。腕に、繕いかけの服を三着抱えている。
「奥様、こちらの補修ですが、どれから先に手をつけましょう。それと、明後日の学習会のお部屋、いつもの北側でよろしいですか。暖炉の煙突が少し詰まっているそうで」
ローレンスは服を見た。どれも同じような大人用の上着に見える。袖口に紙片がピンで留めてあり、数字が書いてあった。
「……少し考えます。置いていってください」
侍女が下がると、ローレンスは小部屋へ行き、妻に尋ねた。クラリッサは表情を変えずに答えた。
「いちばん下の紙の子が急ぎです。学習会までに要ります。部屋は、煙突が詰まっているなら東の小部屋に。人数が少し狭くなりますが、寒いよりいいです。机の右の帳面に、去年の記録があります」
右の帳面を開くと、妻の几帳面な字が並んでいた。日付、名前、用件、渡した物、次に来る日。余白に小さな書き込みがある。――この家は、母親が昼に働いているので夕方に。――この子は寒さで咳が出やすい。――燃料券二回目、支給日確認済み。
読むことはできた。けれど、それをどう使えばいいのかは分からなかった。どの書き込みが今日の判断に関わり、どれが関わらないのか。それを見分けるには、三年分の顔と事情を知っていなければならない。
廊下の向こうから、また別の足音が近づいてくる。
「これも、いつもクラリッサが決めているのか」
小さく呟いてから、ローレンスは自分の声が妻の声だったことに気づいて口を閉じた。
*
次に扉を開けたのは、家令のオズワルドだった。
「奥様、まだお休みにならないのですか」
穏やかで、心配の滲む声だった。
「先ほどの方には燃料券をお渡ししたと伺いました。それで十分でございます。玄関にもうお一人お見えですが、今日はお引き取りいただきましょう。奥様はお気になさらず、お部屋でお休みください」
いつもの家令だった。ローレンス自身も、何度もこの男にそう言わせてきた気がする。妻に余計な苦労をさせるな、と。
「その方は、何のご用で」
「冬の衣類のことだそうで。明日以降に改めてもらえば」
「明日以降、どなたがお受けするのですか」
オズワルドは一瞬、言葉を探した。
「それは……奥様のお加減がよくなられましたら」
「わたくしが休んでいる間は、どなたが」
家令は答えられなかった。困ったように手を組み、それから、侍女長に任せておりますので、と言った。マルタが厨房と受付と補修を同時に抱えていることを、ローレンスはついさっき見たばかりだった。
「この相談は、明日に回しても消えないんですね」
オズワルドの顔に、戸惑いが浮かんだ。奥様がそんなことを言うとは思わなかった、という顔だった。
ローレンスは家令を責めなかった。責める資格が自分にあるとは思えなかった。この男は善意でそう言っている。妻を休ませたいと思っている。ただ、その言葉のあとで、誰が何を引き受けるのかが決まっていない。
「受け付けた用件と、まだ誰の担当かも決まっていない用件を、分けて書き出してもらえますか」
「書き出す、でございますか」
「はい。今日、ここへ来た方の分だけで構いません」
オズワルドは怪訝そうな顔のまま一礼して出ていった。入れ替わりに、小部屋から自分の姿をしたクラリッサが現れた。手に、朝受け取った報告書の束を持っている。
*
「これを、見ていただいた方がいいと思います」
彼女が差し出したのは、冬衣の配給報告だった。ローレンスにとっては見慣れた書式だ。地区ごとの世帯数、配った枚数、受領印。末尾には、今季分の配給は全世帯に完了、とある。
自分がいつも、目を通して署名だけしてきた書類だった。
「数は合っているな。担当に確認すれば――」
言いかけたとき、厨房から母子が戻ってきた。温かいスープを飲んだのか、子どもの頬に少し赤みが差している。マルタに手を引かれて、男の子は相談室の戸口に立った。
大人用の上着は、袖が三重に折り返されていた。裾は膝の下まであり、襟ぐりからは細い鎖骨がのぞいている。前を合わせても、胸元に冷たい風が入りこむだろう。
クラリッサが、報告書の一枚をめくった。町外れの地区の欄を指でたどり、ある世帯の行で止まる。母親の名があり、その横に、人数二名、上着二枚、受領済み、と書いてあった。
「配ったことは分かります」
夫の低い声で、彼女は言った。
「着られたかは、まだ分かりません」
ローレンスは報告書の欄と、戸口の子どもを見比べた。二名、二枚。数字の上では何も足りていない。けれど欄のどこにも、子どもが何歳なのか、どの寸法の服が要るのかは書かれていなかった。家族という一つの枠に、二枚の上着がまとめて記されているだけだ。
妻なら、この先どうするのだろう。そう考えかけて、ローレンスはやめた。今は、まだ答えが分からないことだけを書いておくべきだった。
彼は妻の机から紙を一枚取り、細い指でペンを握った。
――名簿と、実際に渡った服。両方を見ること。
戸口で、男の子が折り返した袖を引っぱった。薄い布の端から、赤くかじかんだ小さな手がのぞいた。
その手のすぐ横で、報告書の受領済みの印が、きちんとした朱の色をしていた。




