↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離婚寸前の辺境伯夫妻は、なぜか毎晩入れ替わる  作者: 南野遥
第1部 あなたの一日を、私は知らなかった

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/43

第2話「私の顔で、私に謝らないで」

 

鏡に向かって瞬きをすると、夫の顔が同じ速さで瞬いた。


クラリッサは右手を上げた。鏡の中の大きな手も上がる。指を一本ずつ折る。同じように折れる。夢なら、どこかで形が崩れるはずだった。けれど床の冷たさも、寝間着の襟の擦れる感触も、はっきりしすぎていた。


廊下を急ぐ足音がした。軽く、せわしない、聞き慣れた足音だ。扉が叩かれる。


「起きているか」


自分の声だった。

けれど、自分の口から聞こえるときとは違う。少し高く、薄く、知らない人の声のように響いた。


扉を開けると、栗色の髪を肩に乱したままの女が立っていた。部屋着の上から厚手の肩掛けを無造作に巻いている。結び目が逆だ。灰緑の目が、見上げる角度で大きく開かれた。


「……クラリッサ、か」


自分の顔が、自分の名を呼んだ。

クラリッサはすぐに頷けなかった。顔は分かる。毎朝鏡で見てきた顔だ。けれど、その中に誰がいるのかは、顔からは分からない。


「顔は分かります。でも、あなたかどうかは、話して確かめたいです」


相手は一度口を閉じ、それから頷いた。


「いいだろう。何を聞く」

「婚約したころ、私が持っていった本の話をしましたね。題を覚えていますか」


短い沈黙があった。


「北の街道を旅した商人の記録だ。宿の名前が多すぎると、君は笑っていた」


それは二人で話したことで、二人しか知らないはずの細部だった。クラリッサは息を吐いた。


「では、私から。昨夜、あなたは杯を置いたあと、最初に何と言いましたか」

「何が足りない、と」

「私が指輪を外したのは」

「話の終わりだ。その前に、考えてくれと言われた」


順番も合っている。クラリッサは鏡の方へ一歩下がり、相手にも見えるように立った。鏡には背の高い黒髪の男と、肩掛けを巻いた女が並んでいる。


「手を、見せていただけますか。触れません」


相手は自分の――クラリッサの――手を持ち上げ、ゆっくり握って開いた。慣れない道具を試すような動きだった。


「身体は動いていないのですね。私は自分の部屋で眠ったのに、ここで目を覚ましました」

「私も、君の部屋で起きた」

「中身だけが、入れ替わった……ということでしょうか」


口にしてみると、ばかげた言葉だった。けれど他に説明のしようがなかった。


「今のところは、そう考えるしかない」


ローレンスはそう言って、廊下を振り返った。


「座ろう。立ったままでは、何も決められない」


  *


寝室の窓際に椅子が二脚あった。クラリッサは夫の身体で腰を下ろし、膝が思いのほか高い位置にくることに戸惑った。向かいに座ったローレンスは、裾を踏みかけて顔をしかめた。


先に口を開いたのは彼だった。


「昨夜のことだが」


クラリッサの声で、彼は言った。


「すまなかった。私は――」

「待ってください」


思ったより強い声が出た。夫の喉から出る声は、少し力を入れただけで部屋の隅まで届いてしまう。クラリッサは声を落とした。


「その声で謝られると、落ち着かないんです。私の声で、私が説得されているようで」


ローレンスは言葉を止めた。


「謝ってほしくない、という意味ではありません。でも今は、どうしたら戻れるのかと、今日をどう過ごすのかを先に考えたいです。その話は、私が私の姿で聞ける時にしてください」


彼はしばらく黙っていた。自分の顔が考え込む表情を、クラリッサは初めて外から見た。眉の寄せ方が、自分の癖とは違っていた。


「分かった。昨夜の話は、置いておく。なかったことにはしない」

「ありがとうございます」


彼は頷き、指を折り始めた。


「私の今日の予定は、午前に橋の補強の確認、昼に副官からの報告、午後に倉庫の検分の約束がある」

「私は午前に相談の受付があります。それから、上着を一着、今朝までに直すと約束していました」


言ってから、クラリッサは自分の膝の上の手を見た。太い指だった。この指で細い針を持てる気がしない。


「どちらも、代わりにはできませんね」

「できない。私は君の相談の受け方を知らないし、君は橋の構造を知らない」


当たり前のことを確かめただけなのに、少しだけ楽になった。一人で背負わなくていいと分かったからではない。相手も同じだけ困っていると分かったからだ。


「誰に、何を伝えますか」

「それを決めよう。だがその前に」


ローレンスは自分の――彼女の――肩掛けを見下ろした。


「着替えなければならないな」


  *


夫の衣装棚の前に立つと、ローレンスが戸口から指示を出した。


「上着は右の扉だ。下の段の引き出しに替えのシャツがある」


クラリッサは言われた扉だけを開け、言われた段だけを引いた。机の上の書類の束には目を向けなかった。封の切られた手紙が一通、端に置かれていたが、それも見ないようにした。


「机の上のものは」

「報告書だ。触らなくていい」


着替えのあいだ、ローレンスは廊下に出て扉を閉めた。クラリッサは目の前の釦だけを見て手を動かした。袖を通すと、布が肩に重い。釦は思ったより大きく、指は思ったより不器用だった。


次は彼女の部屋だった。

今度はクラリッサが戸口に立った。


「その引き出しは手紙です。服は隣にあります」


ローレンスが伸ばしかけた手を止め、隣の引き出しへ移した。


「普段着の灰色のものを。帯は短い方で結べます」


扉を閉めてしばらくすると、中から小さな物音と、くぐもった呻き声がした。


「……背中の紐は、どうなっている」

「入ってもいいですか。紐だけ結びます」

「頼む」


クラリッサは扉を開け、背中の紐だけを見て結んだ。夫の大きな指で自分の服の紐を扱うのは奇妙だった。次は髪だった。ローレンスは栗色の髪を手のひらで束ねたまま、途方に暮れたように鏡を見ている。


「髪に触れても構いませんか」

「ああ」

「三つに分けて、編んで、うしろで留めます。慣れれば一人でできますが、今日は私がやります」


櫛を通すと、自分の髪はこんなに柔らかかったのかと思った。


部屋を出るとき、ローレンスは二歩目で裾を踏んだ。三歩目でもう一度踏んだ。


「歩幅を半分にしてください」

「半分では、廊下の端に着くのが昼になる」

「着きます」


答えた自分の声が廊下に響き、通りかかった侍女がびくりと振り返った。旦那様が朝から大声で何か言っている、という顔だった。クラリッサは咳払いをして、今度はささやくように話した。それでも、彼女の普段の声よりずっと大きかった。


ローレンスが、口の端をわずかに上げた。自分の顔がそんなふうに笑うのを、クラリッサは知らなかった。


  *


居間で向かい合い、二人は一日を短く削った。


橋の補強は副官に任せ、倉庫の検分は延期する。新しい命令や約束はしない。どうしても判断の要るものは、明日まで保留にする。クラリッサの受付も今日は休みにし、上着の修繕も一日待ってもらう。


「休めるはずの朝、ですね」

「体調が悪い、ということにする。二人とも」


オズワルドを呼び、ローレンスが言うべきことを先に小声でクラリッサへ伝え、クラリッサがそれを夫の声で告げた。家令は少し驚いた顔をしたが、昨夜の事故のせいだと思ったらしく、深くは尋ねなかった。


定型の報告書の束だけは、クラリッサが夫として受け取った。中身を判断するのではなく、受け取るだけだ。


「戻る方法を探す前に、今日をどう過ごすか決めましょう」


自分で言った言葉に、少し安心した。まだ何も分からない。けれど少なくとも、今日の形は決まった。


扉が叩かれたのは、そのときだった。


マルタだった。侍女長は二人を見比べ、それから迷わずローレンスの方――クラリッサの姿の方へ向き直った。


「奥様、お休みのところ申し訳ございません。相談のお客様が、今朝もう玄関にいらしているんです」


ローレンスが、助けを求めるようにクラリッサを見た。

クラリッサも、何も言えなかった。マルタの目には、ここに座っているのは体調を崩した奥様と、付き添う旦那様にしか見えていない。


「今日はお受けできないと、お伝えしようとしたのですが」


マルタの声が、少し低くなった。


「奥様にしか頼めない、と仰って。町外れから、お子さんを連れて歩いていらしたそうです。お宅には、今日焚く薪もないと」

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。