第1話「最後の記念日」
ほどいた袖は、大人には短く、子どもにはまだ長かった。
クラリッサは針を置き、布を窓の明かりへかざした。冬の午後の光は早く傾き、縫い目の影が長く伸びている。袖を詰めただけでは足りない。襟ぐりも広すぎて、これでは細い肩から上着がずり落ちてしまう。
「襟も直さないといけませんね」
「やはり、そうですか」
侍女長のマルタが、籠に残った三着を見下ろした。どれも配給所から戻ってきた大人用の上着だ。袖口には、着る子どもの背丈を書いた紙片がピンで留めてある。
「どの子から急ぎますか」
「いちばん下の紙の子です。次の学習会に、町外れから歩いて来るでしょう。そのとき寒くないように」
言いながら、クラリッサは机の引き出しを開けた。今朝、町の小間物屋で買った黒糸と針の控えを取り出し、小さな木箱へ入れる。蓋の内側には、同じような紙が薄く重なっていた。合わせていくらになったのかは数えていない。数えてしまえば、何かを決めなければならない気がしていた。
「奥様、そろそろお支度を。夕食の用意が整います」
戸口から別の侍女が声をかけた。
クラリッサは針山に針を戻し、縫いかけの上着を畳んだ。残りは明日の朝に回すことになる。次の学習会までに三着、そのうち一着は襟から。その期限を覚えているのは、たぶんこの屋敷で自分ひとりだった。
「明日の朝までなら、この一着だけは直せます」
マルタにそう告げて、クラリッサは木箱の蓋を閉じた。
*
食堂の長い卓には、二人分の食器が向かい合わせに並べてあった。銀の燭台、白い卓布、温室で育てた季節外れの花。三回目の結婚記念日だからと、料理人が昼から手を尽くしてくれたものだ。
夫の席は空いていた。
「お料理は、温め直しをいたしましょうか」
家令のオズワルドが控えめに尋ねた。
「旦那様が何時にお戻りか、分かりますか」
「それが……厩舎の者の話では、国境の橋で荷車の事故があったとか。旦那様はそのまま現場へ向かわれたそうです」
怪我人は、と聞くと、オズワルドは詳しくは存じませんと首を振った。
誰かが怪我をしたのなら、夫が行くのは当然だ。クラリッサはそれを責めるつもりはなかった。ただ、帰りが遅れると知らせる短い言付けひとつ、彼から届いたことはない。いつも伝えてくれるのは厩舎の誰かか、門番か、翌朝の夫自身だった。
「何時になるか分からないのに、厨房を待たせておくのは気の毒です。皆さんは先に済ませてください。私の分も下げて構いません」
「よろしいのですか」
「ええ。旦那様がお戻りになったら、お伝えください」
クラリッサは椅子から立ち上がった。
「今日は、私も話したいことがあります、と」
自室に戻り、文机の鍵のかかった引き出しを開ける。実家の母へ宛てた手紙の下書きがあった。三週間前、帰ってもよいかと尋ねた手紙に、母はいつでもと返してくれた。その礼と到着の目安を書いた二通目は、まだ封をしていない。隣には、結婚前から自分の名で預けている口座の控えと、王都までの旅費を分けた小袋が並んでいる。
一年目の秋だった。領地の会議に出させてほしいと頼んだとき、夫は少し考えて、君が無理をする必要はない、と言った。優しい声だった。だから余計に、それ以上は何も言えなかった。
廊下の向こうで、玄関の扉が開く音がした。重い靴音が、石の床を近づいてくる。
*
ローレンスは、外套を脱いだばかりの姿で居間にいた。黒髪には溶けた雪の雫が光り、袖口には泥が乾いている。大きな肩が、いつもより少し下がって見えた。
「遅くなった。夕食を……すまない」
「おかえりなさいませ。まず、何か温かいものを」
クラリッサは控えていた侍女に湯と葡萄酒を頼み、暖炉に近い椅子を勧めた。ローレンスは腰を下ろし、杯を受け取ってから、ようやく彼女を見た。
「怪我をされた方は」
「二人。どちらも命に別状はない。橋は明日、補強させる」
「よかったです」
それは本心だった。彼が今夜したことを、軽く扱いたくはなかった。だからこそ、杯が半分ほど空くまで待った。
「オズワルドから聞いた。話があると」
「はい」
膝の上で手を重ねる。指先に、結婚指輪の硬さが触れた。
「離婚をお願いしたいと思っています」
暖炉の薪が小さく爆ぜた。ローレンスは杯を卓へ置いた。その音が、いつもより大きかった。
「……何が足りない」
低い声だった。怒っているのではなく、本当に分からないときの声だと、クラリッサは知っていた。三年のあいだに覚えた、数少ない彼の声のひとつだ。
「不自由があるなら言ってくれ。部屋でも、人手でも――」
「一年目に、領地の会議へ出たいとお願いしました」
ローレンスの言葉が止まった。
「去年は、翻訳の仕事をいただけそうだとお話ししました。あなたは、忙しくなるからやめておけと」
「あれは、君の負担に」
言いかけて、彼は口を閉じた。続きを探すように視線が卓の上をさまよい、何も見つけられないまま戻ってくる。
クラリッサは待った。けれど、言葉は来なかった。
「好きか嫌いか、という話ではないんです」
自分の声が、思っていたより静かだった。
「私はこの三年、ずっと待っていました。お帰りを待って、お返事を待って、いつか聞いていただける日を待って。今日も、何時にお戻りか分からないまま、食卓の前で待っていました。それを、もう終わりにしたいんです」
「足りないものがあるなら――」
「足りないのは物ではありません。私が決める場所です」
ローレンスが顔を上げた。青灰色の目に、見たことのない色がよぎった。痛みなのか、驚きなのか、クラリッサには分からなかった。顔色を読んで言葉を引っ込めるのは、今夜はやめようと決めていた。
「すぐにお返事をいただかなくて構いません。考えてください」
彼は何か言おうとして、やめ、それから短く頷いた。止めろとも、許さないとも言わなかった。それだけで、肩の力がわずかに抜けた。
クラリッサは立ち上がり、左手の薬指から指輪を外した。
*
居間の奥の控室に、誓約具は置かれていた。婚礼の日に二人の指輪を載せた、古い銀の台座だ。蔦の彫りが縁を巡り、中央に小さな窪みが二つ並んでいる。エルヴェイン家に伝わる婚礼の飾りだと聞いていた。普段は布をかけて棚に置かれ、誰も気に留めない。
クラリッサは布を外し、右の窪みに自分の指輪を置いた。小さな金の輪が、すっと収まる。
しばらくして、隣に影が差した。ローレンスが、自分の指輪を外していた。
「返事を考えるあいだ、こうしておく」
それが何の区切りなのか、彼は説明しなかった。左の窪みに、ひとまわり大きな輪が置かれる。二つの指輪が、銀の台の上で並んだ。
「おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
廊下で別れ、それぞれの寝室へ向かう。三年間、そうしてきたように。
部屋で一人になると、ようやく手が震えた。クラリッサは母への手紙に日付を書き入れ、封をして、寝台に入った。眠れないまま天井を見ていると、階下の大時計が鳴り始めた。一つ、二つ。数えようとした、そのとき。
音が、ふっと途切れた。
落ちるような、引かれるような、ほんの数呼吸の空白。
気がつくと、窓の外が白んでいた。
眠っていたのだろうか。身を起こそうとして、クラリッサは違和感に動きを止めた。
腕が重い。上掛けを押しのけた手は骨ばって大きく、指の付け根に硬いたこがあった。天井の梁の形が違う。壁に掛かっているのは、見覚えのない領地の地図だ。
ここは、夫の寝室だった。
寝台を降りると、床が妙に遠い。よろめきながら壁際の鏡の前に立つ。
映っていたのは、乱れた黒髪の、背の高い男だった。青灰色の目が、こちらを見て見開かれている。
ローレンスの顔だった。
クラリッサは口を開いた。
「……私の声は、どこへいったの」
鏡の中で夫の唇が動き、低い、知らない声が返ってきた。




