第47話「好きだった、だけでは足りない」
自分の声で言わなければ、本当のことにならない気がした。だから、一晩待った。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝、鏡の前で、自分の髪を自分の指で梳く。昨夜の言いかけた言葉は、一晩のあいだ、胸の中で形を変えなかった。
午前は、いつものように過ごした。マルタと受付の控えを確かめ、帳面に判断の理由を書き足す作業を一刻。書き足すのは、仕事の時間の中でと決めてあった。
昼食の前に、決めておいた短い時間が来た。
ローレンスは、庭の見える小部屋で待っていた。冬の庭は枯れていたが、窓から入る光は明るかった。
向かい合って座ると、クラリッサは、先に言った。
「これから話すのは、結婚をどうするかの返事ではありません」
ローレンスが、頷いた。
「そう思って、聞いてください」
息を吸った。自分の声が、自分の喉から出る。それだけで、昨夜より、ずっと言いやすかった。
「結婚する前、政略の話だと分かっていても、私はあなたのことを好きでした」
ローレンスは、動かなかった。
「手紙の字が好きでした。短くて、飾りがなくて、読み返すたびに、同じことしか書いていないのに、何度も読みました。初めてお会いした日、馬車を降りるとき、手を差し出してくださったのが、嬉しかったんです」
三年間、しまっていたことだった。言葉にしてみると、思っていたよりも小さくて、温かかった。
言い終えて、クラリッサは膝の上で手を握った。
ローレンスは、すぐには何も言わなかった。何かを言いかけて、やめたように見えた。
*
「今は、どうだ」
ローレンスの口が、そう動きかけた。クラリッサには、それが分かった。
けれど、声にはならなかった。ローレンスは、唇を閉じ、しばらく窓の外を見た。それから、ゆっくりと、別のことを尋ねた。
「その気持ちを、私は、何で失わせた」
静かな声だった。責める調子も、許しを乞う調子もなかった。
クラリッサは、少し驚いた。今の気持ちを聞かれると思っていた。答えを求められると、身構えていた。
けれど、夫は、過去の方を向いていた。
「一つずつ、聞かせてほしい」
クラリッサは、指を折って、答えた。
一年目の、会議のこと。出たいと言ったとき、危ないことや大変なことに、言い換えられて返ってきたこと。
翻訳の仕事のこと。去年、イネスが持ってきてくれた話を、忙しくなるからと止められたこと。
言付けのない夜のこと。帰りが遅れると知らせてくれる人は、いつも、あなたではなかったこと。
贈り物のこと。きれいなものは嬉しかったけれど、話す時間の代わりにはならなかったこと。
「それから」
少し、言葉が詰まった。
「気づいたら、自分の望みを、言わなくなっていました。どうせ聞いてもらえない、と先に思って。言わないのが、楽になって」
言ってしまってから、胸の奥が、少しだけ軽くなった。夫を責めるために並べたのではなかった。ただ、起きたことを、起きたとおりに並べた。
ローレンスは、一つずつを、黙って聞いていた。途中で目を伏せることはあっても、遮らなかった。言い訳も、しなかった。
「分かった」
最後に、それだけ言った。
*
窓の外で、風が枯れた枝を揺らしていた。
クラリッサは、もう一つ、言っておきたいことがあると思った。
「最近のことも、言っておきます」
ローレンスが、顔を上げた。
「この半月の、あなたの変化に、嬉しいと思った瞬間が、確かにありました」
数えるように、続けた。
護衛の案の一行を、自分の手で線を引いて消してくださったこと。六時に、夕食の席にいてくださったこと。答えられない、と言ってくださったこと。
「それは、本当に、嬉しかったんです」
ローレンスの肩が、わずかに動いた。
「でも」
クラリッサは、言葉を選んだ。
「結婚前の気持ちに、戻りたいわけではありません」
あのころの自分を、思い出す。馬車を降りる手を見上げて、嬉しかった自分。
「あのころの私は、待つことを知らなかっただけなんです。手紙が来れば嬉しくて、来なければ、待てばいいと思っていた。それが、三年間続くとは思っていなかった」
少し、笑った。
「好きだったことと、戻りたいことは同じではありません」
ローレンスは、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。
「王都のことも、まだ決めていません。結婚のことの返事も、まだです。それは、変わりません」
言い終えて、クラリッサは、肩の力を抜いた。
好意を認めることと、何かを決めることは、別のことだった。それを、自分の声で、言い分けられた。言い分けたことで、かえって、胸が静かになった。
ローレンスが、深く息を吐いた。
その顔に、疲れが濃く見えた。目の下の影が、いつもより深い。
*
「すまない」
ローレンスが、短く言った。
「昨日から、拠点の件と、試験の便で、ほとんど眠れていない。顔が、ひどいだろう」
「いえ」
否定しかけて、クラリッサは、言葉を止めた。確かに、ひどい顔だった。
ローレンスは、少しのあいだ、膝の上の自分の手を見ていた。それから、ゆっくりと、卓の上に、手を差し出した。
掌を上にして。
「触れてもいいか」
低い声だった。
クラリッサは、その手を見つめた。大きくて、節の太い手。昨日まで、自分の手として、細かな字を書き、薄い紙をめくった手。
返事は、すぐには出なかった。
結婚前の気持ちを話した。変化を、嬉しいと言った。けれど、それは、手を重ねることと同じではない。
迷った。
けれど、その迷いの中に、嫌だという気持ちは、見つからなかった。
クラリッサは、小さく頷いた。
自分の手を、夫の掌の上に、そっと置いた。
温かかった。思っていたより、ずっと。夫の指が、わずかに閉じかけ、それから、閉じずに、そのまま載せているだけだった。
数呼吸、そうしていた。
何も、約束しなかった。夫も、何も言わなかった。窓の外の風の音だけが、小部屋にあった。
クラリッサは、先に、手を離した。
夫は、それを追わなかった。掌を、卓の上に、ゆっくりと下ろしただけだった。
これは、答えではない。今の気持ちの、一つに過ぎない。それは、手を離したあとも、クラリッサの胸の中で、はっきりしていた。
*
夕方、窓の外で、馬の蹄の音がした。
使いの者が、屋敷の門の前で、馬を降りた。肩に、革の包みを抱えている。包みには、深い青の封蝋が押してあった。
オズワルドが、出迎えに出ていった。
クラリッサは、小部屋の窓から、その包みを見た。
見覚えのある封蝋の印だった。あの朝、照会の控えに押した封蝋とは違う。けれど、その印が示す先は、同じだった。
王立文書館の、封印付きの荷が、屋敷に届いた。




