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離婚寸前の辺境伯夫妻は、なぜか毎晩入れ替わる  作者: 南野遥
第3部 守ることと、決めること

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第47話「好きだった、だけでは足りない」

 

自分の声で言わなければ、本当のことにならない気がした。だから、一晩待った。


零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝、鏡の前で、自分の髪を自分の指で梳く。昨夜の言いかけた言葉は、一晩のあいだ、胸の中で形を変えなかった。


午前は、いつものように過ごした。マルタと受付の控えを確かめ、帳面に判断の理由を書き足す作業を一刻。書き足すのは、仕事の時間の中でと決めてあった。


昼食の前に、決めておいた短い時間が来た。


ローレンスは、庭の見える小部屋で待っていた。冬の庭は枯れていたが、窓から入る光は明るかった。


向かい合って座ると、クラリッサは、先に言った。


「これから話すのは、結婚をどうするかの返事ではありません」


ローレンスが、頷いた。


「そう思って、聞いてください」


息を吸った。自分の声が、自分の喉から出る。それだけで、昨夜より、ずっと言いやすかった。


「結婚する前、政略の話だと分かっていても、私はあなたのことを好きでした」


ローレンスは、動かなかった。


「手紙の字が好きでした。短くて、飾りがなくて、読み返すたびに、同じことしか書いていないのに、何度も読みました。初めてお会いした日、馬車を降りるとき、手を差し出してくださったのが、嬉しかったんです」


三年間、しまっていたことだった。言葉にしてみると、思っていたよりも小さくて、温かかった。


言い終えて、クラリッサは膝の上で手を握った。


ローレンスは、すぐには何も言わなかった。何かを言いかけて、やめたように見えた。


  *


「今は、どうだ」


ローレンスの口が、そう動きかけた。クラリッサには、それが分かった。


けれど、声にはならなかった。ローレンスは、唇を閉じ、しばらく窓の外を見た。それから、ゆっくりと、別のことを尋ねた。


「その気持ちを、私は、何で失わせた」


静かな声だった。責める調子も、許しを乞う調子もなかった。


クラリッサは、少し驚いた。今の気持ちを聞かれると思っていた。答えを求められると、身構えていた。


けれど、夫は、過去の方を向いていた。


「一つずつ、聞かせてほしい」


クラリッサは、指を折って、答えた。


一年目の、会議のこと。出たいと言ったとき、危ないことや大変なことに、言い換えられて返ってきたこと。


翻訳の仕事のこと。去年、イネスが持ってきてくれた話を、忙しくなるからと止められたこと。


言付けのない夜のこと。帰りが遅れると知らせてくれる人は、いつも、あなたではなかったこと。


贈り物のこと。きれいなものは嬉しかったけれど、話す時間の代わりにはならなかったこと。


「それから」


少し、言葉が詰まった。


「気づいたら、自分の望みを、言わなくなっていました。どうせ聞いてもらえない、と先に思って。言わないのが、楽になって」


言ってしまってから、胸の奥が、少しだけ軽くなった。夫を責めるために並べたのではなかった。ただ、起きたことを、起きたとおりに並べた。


ローレンスは、一つずつを、黙って聞いていた。途中で目を伏せることはあっても、遮らなかった。言い訳も、しなかった。


「分かった」


最後に、それだけ言った。


  *


窓の外で、風が枯れた枝を揺らしていた。


クラリッサは、もう一つ、言っておきたいことがあると思った。


「最近のことも、言っておきます」


ローレンスが、顔を上げた。


「この半月の、あなたの変化に、嬉しいと思った瞬間が、確かにありました」


数えるように、続けた。


護衛の案の一行を、自分の手で線を引いて消してくださったこと。六時に、夕食の席にいてくださったこと。答えられない、と言ってくださったこと。


「それは、本当に、嬉しかったんです」


ローレンスの肩が、わずかに動いた。


「でも」


クラリッサは、言葉を選んだ。


「結婚前の気持ちに、戻りたいわけではありません」


あのころの自分を、思い出す。馬車を降りる手を見上げて、嬉しかった自分。


「あのころの私は、待つことを知らなかっただけなんです。手紙が来れば嬉しくて、来なければ、待てばいいと思っていた。それが、三年間続くとは思っていなかった」


少し、笑った。


「好きだったことと、戻りたいことは同じではありません」


ローレンスは、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。


「王都のことも、まだ決めていません。結婚のことの返事も、まだです。それは、変わりません」


言い終えて、クラリッサは、肩の力を抜いた。


好意を認めることと、何かを決めることは、別のことだった。それを、自分の声で、言い分けられた。言い分けたことで、かえって、胸が静かになった。


ローレンスが、深く息を吐いた。


その顔に、疲れが濃く見えた。目の下の影が、いつもより深い。


  *


「すまない」


ローレンスが、短く言った。


「昨日から、拠点の件と、試験の便で、ほとんど眠れていない。顔が、ひどいだろう」


「いえ」


否定しかけて、クラリッサは、言葉を止めた。確かに、ひどい顔だった。


ローレンスは、少しのあいだ、膝の上の自分の手を見ていた。それから、ゆっくりと、卓の上に、手を差し出した。


掌を上にして。


「触れてもいいか」


低い声だった。


クラリッサは、その手を見つめた。大きくて、節の太い手。昨日まで、自分の手として、細かな字を書き、薄い紙をめくった手。


返事は、すぐには出なかった。


結婚前の気持ちを話した。変化を、嬉しいと言った。けれど、それは、手を重ねることと同じではない。


迷った。


けれど、その迷いの中に、嫌だという気持ちは、見つからなかった。


クラリッサは、小さく頷いた。


自分の手を、夫の掌の上に、そっと置いた。


温かかった。思っていたより、ずっと。夫の指が、わずかに閉じかけ、それから、閉じずに、そのまま載せているだけだった。


数呼吸、そうしていた。


何も、約束しなかった。夫も、何も言わなかった。窓の外の風の音だけが、小部屋にあった。


クラリッサは、先に、手を離した。


夫は、それを追わなかった。掌を、卓の上に、ゆっくりと下ろしただけだった。


これは、答えではない。今の気持ちの、一つに過ぎない。それは、手を離したあとも、クラリッサの胸の中で、はっきりしていた。


  *


夕方、窓の外で、馬の蹄の音がした。


使いの者が、屋敷の門の前で、馬を降りた。肩に、革の包みを抱えている。包みには、深い青の封蝋が押してあった。


オズワルドが、出迎えに出ていった。


クラリッサは、小部屋の窓から、その包みを見た。


見覚えのある封蝋の印だった。あの朝、照会の控えに押した封蝋とは違う。けれど、その印が示す先は、同じだった。


王立文書館の、封印付きの荷が、屋敷に届いた。

 

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