第48話「魔法がなくなった、その後は」
封蝋の番号は、あの夜に家令が書き写した刻印と、一字も違わなかった。
夕方の小部屋から玄関へ降りると、広間にはもう灯りが入っていた。使いの者が、革の包みを両腕で抱えて立っている。肩には雪の粒が残り、外套の裾は泥で重かった。
オズワルドは、包みを受け取らなかった。
「受け取りの署名をいたします前に、旦那様と奥様を、お呼びしてよろしいでしょうか」
使いの者が頷くのを待って、家令はクラリッサを振り返った。ローレンスも、同じ広間へ出てきたところだった。昼の小部屋のことは、どちらも口にしなかった。
「それぞれ、控えをお持ちください」
二人は、自分の控えを取りに戻った。あの朝、発送のあとに一通ずつ手元に残した、あの二通だ。クラリッサの控えは、何度も開いたせいで、折り目が柔らかくなっていた。
広間の卓に、二通を並べた。照会の番号。台座の刻印の番号。それを、包みの封蝋の番号と、オズワルドが声に出して読み合わせる。
「照会の番号、一致いたします。刻印の番号、一致いたします。お二人の控えと、番号が一致しております」
家令の声が、わずかに震えていた。
クラリッサは、卓の上の革の包みを見つめた。
待っていたものが、本当に、届いた。何週間も先のことだと思っていた。夫の身体で目を覚ましていた朝、あの図面の前で、数週間、と呟いたことを思い出す。その数週間が、確かに過ぎていた。
使いの者が、一つだけ言い添えた。
「文書館の方が、明日、こちらに着かれます。それまでは、封の中の説明書だけを、お読みになってお待ちくださいとのことです」
署名を済ませ、オズワルドが包みを抱えた。
「控室へ参りましょう。あの台座の前で、封を切るのがよろしいかと存じます」
*
控室の台座は、布をかけたまま、棚の上にあった。
二つの指輪は、あの夜のまま、並んでいる。台座の側面の蓋の脇には、米粒ほどの白い石が、ごく淡く光っていた。巡りがあるあいだは、光っている。今夜も、まだ消えていない。
その前の卓に、革の包みを置いた。
オズワルドが、封蝋を割った。三人が、卓を囲んで立っていた。
包みの中には、二つのものが入っていた。
一つは、台座の登録の写しの一部。古い書体の紙が、薄く折られている。もう一つは、白い紙に細かな字で書かれた、短い説明書だった。末尾に、署名がある。王立文書館、セシル・ノール。
ローレンスが、説明書を卓の真ん中に広げた。
「読み上げるか。それとも、一人ずつ読むか」
「一緒に読みましょう」
クラリッサが言うと、ローレンスは頷き、紙を二人の間に寄せた。
説明書は、事務的な文章だった。
照会に記された刻印の番号と、文書館の記録は、一致した。この道具の登録は、確かに文書館にある。結び付きを解くための手順は、原本と照らし合わせたうえで、明日、直接説明する。
そして、続けて書いてあった。
巡りを止める封と、結び付きを解くことは、別のものである。封は、巡りを止めるのみ。結び付きを解くには、登録の原本と解きの式を要する。それは、図面の記すとおりである。
クラリッサは、息をひとつ吐いた。図面で読んだことが、そのまま確かめられた。
説明書は、そこで一度、改行されていた。その下に、短い文が、いくつか独立して置かれていた。
クラリッサは、その一文に目を落とした。
*
――この道具の結び付きを解くことと、婚姻の登録とは、関係がございません。
最初の一行は、そう読めた。
道具を解いても、結婚の登録は動かない。魔法を終えることと、夫婦を終えることは、別のことだった。もし、結婚を終えたいなら、それは別に、決めなければならない。
クラリッサは、その一行を、何度か読んだ。
結婚の登録を、魔法の力で動かせるものだとは、思っていなかった。それでも、どこかで、そう思っていた気がした。魔法が終わるとき、何かが一緒に終わる。あるいは、一緒に決まる。そんな形を、無意識に思い描いていたのかもしれない。
そうではなかった。魔法は魔法で終わり、結婚は、自分たちが決める。
続く行は、少し言葉の調子が違っていた。
――この道具は、婚礼の飾りとして伝わっておりますため、お尋ねがなくとも、あらかじめお断りしておきます。
そして、その下に、もう一行。
――お二人が愛し合っておられるかどうかは、解除に関わりございません。
クラリッサは、思わず、紙から目を上げた。
ローレンスも、同じところを読んでいたらしい。目が合った。
何も言わなかった。二人とも、息を止めたように、黙っていた。
ずっと、どこかで疑っていた。この道具は、私たちを試しているのではないか。何かの条件が満ちれば、元に戻るのではないか。仲が良くなれば終わるのではないか。悪くなれば終わるのではないか。
そうではなかった。この道具は、愛し合っているかを、知らなかった。知ろうとさえ、していなかった。
肩にあった、見えない重さが、ふっとほどけた。
*
説明書を卓に置いて、クラリッサは、小さく言った。
「戻れる方法があるなら、予定を立てられますね」
自分の声が、思ったより明るく聞こえた。
封を閉じ、結び付きを解けば、境を越えられる。峠の向こうへ行ける。イネスの手紙の日付を、ようやく自分で決められる。
安心が、確かにあった。何週間も待ったものが、手の中にある。
その安心の隣に、別のものが、静かに座っていた。
夫の身体で目を覚ます朝が、終わる。
書斎の机の高さに、戸惑った朝。テオの地図を、読めないまま広げた朝。夫の指で、細かな字の帳面を一枚ずつめくった午前。妻の身体の夫が、窓の内側で手を出さずに立っていた朝。互いの身体の痛みを、一言で預け合った、あの短い申し送り。
あの毎朝が、全部、終わる。
道具が終わるということは、あの共同作業が、終わるということだった。魔法がなくなれば、夫の机に来る報告も、自分の部屋に来る相談も、それぞれの身体で、それぞれの場所で受け取ることになる。
出口が、急に、別れの形をして見えた。
クラリッサは、卓の上の説明書を見つめたまま、動けなかった。
夫の方を、見た。
ローレンスは、説明書の最後の一文から、まだ目を離していなかった。その横顔に、何かを必死に押し留めているような静けさがあった。
あの日、控えの間で決めたことを、クラリッサは思い出した。結婚の話は、照会の返事が届いた時か、調べの仕事の期限の月末か、どちらか早い方に、もう一度話す。その時が、来たのだった。
けれど、今夜は、まだ、その話をする時ではなかった。
*
「写しは」
ローレンスが、口を開いた。
「一部ずつ、持とう」
説明書と、登録の写しを、卓の上で二つに分けようとしていた。
「私だけが持つことは、しない。君も、持っていてくれ」
クラリッサは、夫の手の動きを見た。紙を、自分の側へ寄せなかった。二人の真ん中へ置き、それから、片方を、こちらへ押しやった。
資料を、遅らせることもできた。説明書を、明日の文書館員の到着まで、自分の机の引き出しにしまっておくこともできた。そうすれば、まだ、考える時間が増える。
けれど、夫は、しなかった。
「隠すつもりはない」
ローレンスは、静かに言った。
「明日、一緒に聞こう。解きの条件を、文書館員から」
クラリッサは、写しの一部を、自分の袖の中へしまった。
出口を、夫が自分の手で渡してくれた。それを、静かに受け取った。
「結婚の話は、手順を確かめたあとにしましょう」
クラリッサが言うと、ローレンスは、小さく頷いた。
「返事が届いたら話すと決めたことは、守る」
十時の鐘が、遠くで鳴り始めた。
二人は、台座の前の椅子に、座った。今夜の零時のことを、確かめなければならなかった。
「明日、文書館員に聞くまで、封は閉じません」
「ああ」
「明日の零時だけ、続けてもいいですか。その先は、説明を聞いてから」
ローレンスは、頷いた。
「止めたいと言われれば、止める。それは、変わらない」
声は、静かだった。
オズワルドが、控えの綴りに、その夜の返事を書きとめた。
卓の上の説明書は、灯りに照らされて、最後の一文だけが、白く浮いていた。
――お二人が愛し合っておられるかどうかは、解除に関わりございません。




