第46話「好きだった人の、知らない夢」
君の部屋にある本なのに、君の手で開くのに、読む前に許しを求めるのは、奇妙なことだった。
試験の便の知らせを読み終えて、ローレンスは妻の部屋に戻った。
夕方まで倉庫の事務部屋の入口に立っていたせいで、妻の身体は、足の先まで冷えていた。暖炉に近い椅子に腰を下ろし、膝に毛布をかける。細い指が、まだ少しかじかんでいた。
文机の上に、角のすり切れた革の本が置いてあった。
北の街道を旅した商人の記録。婚約したころ、妻が持ってきた本だ。宿の名前が多すぎる、と彼女が笑っていたのを覚えている。何日か前の夜、書斎の暖炉の前で、妻はこの本を膝に開いていた。余白に、細かな字がびっしりと並んでいた。
手を伸ばしかけて、止めた。
今、この手は妻の手で、ここは妻の部屋だった。誰も見ていない。開こうと思えば、開ける。
だが、それは、自分が決めることではなかった。
ローレンスは立ち上がり、廊下を渡って書斎の扉を叩いた。
夫の身体の中の妻が、机から顔を上げた。必要量の一覧の続きを読んでいたらしい。
「あの本を読んでもいいか。君の書き込みを知りたい」
クラリッサは、少し驚いた顔をした。夫の顔が、そういう表情をするのは、まだ見慣れなかった。
「余白のことですか」
「ああ。君の部屋の机にある。だが、君がいいと言うまでは、触らない」
クラリッサは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「一緒に見るなら」
「それでいい」
二人は、妻の部屋へ戻った。暖炉の前の小さな卓に、本を間に置いて座った。
*
クラリッサが、頁を開いた。
自分の手で開くより、少しぎこちない。夫の太い指で、古い紙を傷めないように、一枚ずつめくる。
余白に、細かな字が、いくつもあった。
印刷された宿場の名の横に、矢印と短い言葉。南の海沿いの宿場の名前。その宿の主人は、朝に必ず魚の汁を出す。峠を越えるのに、荷車なら三日、徒歩なら五日。雪の季節は、これに二日。
「ここにも」
クラリッサは、別の頁を指した。
荷の運び賃の覚え書きだった。羊毛、一束いくら。塩、一樽いくら。宿場ごとに、値が違う。その横に、小さく、帰りは何を積むのだろう、と書いてあった。
ローレンスは、その一行を、じっと見た。
この半月、妻が荷馬車の帰りのことを、誰より早く考えていたこと。ギルベルトの紙を見て、空荷の値段に気づいたこと。それは、偶然ではなかった。ずっと前から、ここに書いてあった。
「旅をしたかったのではないんです」
クラリッサが言った。夫の低い声で、けれど、話し方は妻のものだった。
「道の向こうに行きたかったというより、道の仕組みを知りたかったんです」
ローレンスは、顔を上げた。
「人と荷が、道をどう動くか。誰がいくら払って、どこで泊まって、何を持って帰るのか。それを知っていると、手紙の向こうに、荷馬車が見えるんです」
窓の外が、少しずつ暗くなっていた。マルタが灯りを持ってきて、黙って卓に置いて出ていった。
この半月で見てきた妻の働きは、全部、この余白の上にあった。
*
頁を繰る妻の指を、ローレンスは眺めていた。
その手を見ているうちに、遠い日のことが、ふいに浮かんだ。
婚約して間もないころだった。妻の家の応接間。妻が、この本を持ってきた日。
宿の名前が多すぎる、と彼女は笑った。自分も笑った。それは、覚えていた。
その少し前に、彼女は別のことを言っていた。
――父の書斎で、交易の手紙を読むのが好きでした。いつか、そういう文書を訳して、商人と条件を詰める仕事をしてみたいと思っています。
自分は、何と答えただろう。
――北へ来れば、そんな暇はないだろう。
笑って、そう言った。冗談のつもりだった。彼女も、そのときは、笑い返した。
それきり、その話は、出なかった。
自分は、笑って流した。彼女がどんな顔をしていたかも、覚えていない。覚えていたのは、宿の名前のことだけだった。
ローレンスは、膝の上の細い手を握った。
言い訳にするつもりも、謝罪の形にするつもりもなかった。ただ、思い出したことを、そのまま口にした。
「君が、仕事の話をしたのを、私は笑って流した。婚約のころだ。今、それを思い出した」
クラリッサの指が、頁の上で止まった。
「北へ来れば暇はない、と言った。冗談のつもりだった。君がどういう顔をしていたかも、覚えていない」
しばらく、暖炉の薪の音だけがあった。
「覚えていてくださらなかったことは、知っていました」
クラリッサは、静かに言った。責める声ではなかった。ただ、ずっと前から知っていた、という声だった。
ローレンスは、何も言い返さなかった。
胸の奥に、「ここにいてほしい」という言葉が、せり上がってきた。
惜しい、と思った。この人が、ここを離れていくことが。けれど、その言葉を口にすれば、今夜の話は、全部そこへ吸い込まれてしまう。
ローレンスは、その言葉を、飲みこんだ。
*
「王都で」
ローレンスは言った。
「何を学びたい」
クラリッサが、顔を上げた。
行かないでくれ、でも、行ってどうする、でもなかった。夫の口から出た問いが、自分でも意外だった。
クラリッサは、少し考えてから、答えた。
「契約の言葉の、本当の使い方です。引渡しと、保管と、検収。辞書の意味ではなく、荷が動く時に、その言葉が何をさせているのか」
声が、少しずつ、明るくなっていく。
「それから、荷の引渡しの決まり。誰のものが、どこで、誰のものになるのか。それと、商談の聞き取りです。相手が何を言わないでいるのかを、聞き取れるようになりたい」
話すうちに、頬に血の色が戻ってきた。夫の顔で、妻が笑っていた。いつもの顔とは違うはずなのに、ローレンスには、それが誰なのか、はっきり分かった。
聞いているうちに、気づいた。この人は、王都へ行きたいのではなかった。学びたいことがあって、それが王都にある。ただ、それだけだった。
一通り話し終えて、クラリッサは、不意に黙った。
それから、本をそっと閉じた。夫の大きな手が、革の表紙を撫でる。
「結婚する前」
クラリッサは、少しためらってから、言った。
「私は、あなたのことを――」
そこで、口を閉じた。
ローレンスは、息を詰めた。
クラリッサは、首を振った。
「この話は、明日、自分の身体で話したいんです。今夜は、あなたの身体で、あなたの声で言うことになってしまうから」
ローレンスは、ゆっくりと頷いた。
「明日まで、待つ」
十時の鐘が鳴った。二人は控室へ向かい、今夜の零時のことを確かめた。続けることに、どちらも異を唱えなかった。
廊下の途中で、ローレンスは、妻の言いかけた言葉の続きを、考えないようにした。
けれど、考えまいとするほど、その言葉の形が、胸の中で輪郭を持った。
結婚する前、私は、あなたのことを。




