第45話「荷物の向こうに、人がいる」
荷台に積まれていくのは上着と羊毛だったが、帳面に書きとめるたびに、浮かぶのは人の顔だった。
零時を過ぎて、クラリッサは夫の身体で目を覚ました。控室で、左の肩が冷えると張ることを聞く。妻の身体のローレンスからは、昨夜の約束をもう一度、短く確かめられた。口を出さない。決めない。見て、書くだけ。
夜明け前の倉庫は、吐く息が白かった。
クラリッサは、倉庫の事務部屋の窓の内側に立っていた。隣には、テオがいる。誰かに話しかけられたら、テオが代わりに答える。それが、昨夜決めた段取りだった。夫の顔で窓辺に立っていると、倉庫の者たちは、ときどきこちらを仰いで頭を下げた。領主が見ている、と思うのだろう。クラリッサは、頷き返すだけにした。
窓の下で、二つの荷積みが同時に始まっていた。
倉庫の北の端では、テオが昨夜のうちに配置を決めた兵たちが、補給便の樽と袋を積んでいる。熱を出した一人の分は、七人で回していた。誰かが声をかけ、誰かが応え、荷は迷いなく台に上がっていく。テオは窓から一度だけ見下ろし、頷いて、それ以上は何も言わなかった。
南の端では、倉庫の管理役と、受取所の係と、市場生まれの若い係が、試験の便の荷を積んでいた。今朝早く、南の仕立て屋の荷が着いたばかりだった。子ども用の上着の箱が、そのまま積みこまれていく。半刻遅れの出発が決まっていたので、三人の動きには、少しだけ余裕があった。
クラリッサは、帳面を開いた。荷の中身。積み始めた時刻。人数。
窓の内側から、何も言わずに書いた。何か言いたくなるたび、口を閉じた。
今日の私は、この窓の内側で、書くだけの人。
その決めごとは、思っていたより、手のやり場に困った。見ているだけで、手が出せない。けれど、手を出さずにいると、荷がちゃんと積まれていくのが、よく見えた。
南の端で、係の声が上がった。
「羊毛の場所が、足りません」
*
荷台は、思っていたより狭かった。
南の仕立て屋の荷の一部も積むことになっていた。子ども用の上着の箱が、予定より場所を取っている。行きの荷を詰めていくと、帰りに羊毛を積む余地が、ほとんど残らなくなっていた。
係が荷台の前で腕を組み、管理役が首をかしげた。若い係が、積みかけの箱を一度下ろそうとして、手を止めた。
窓から、クラリッサは息を詰めて見ていた。降りていって、積み方を直したくなった。けれど、自分は積み方を知らない。知らないまま口を出せば、領主の一言が、全部を止めてしまう。
そのとき、倉庫の門から、一人の男が小走りに入ってきた。
三十前後の、背の低い男だった。肩に、油を引いた大きな布を担いでいる。イネスの手代だと、テオが小声で教えてくれた。
手代は、管理役に頭を下げ、懐から一枚の紙を出した。
「主人から、書付を預かってまいりました。帰りの羊毛のための積み順と、覆いの掛け方でございます」
管理役が受け取り、読み始める。
窓からは、紙の細かな字までは見えなかった。ただ、管理役の顔が、読むうちに変わっていくのが見えた。
「行きの荷を、片側に寄せるのか」
「はい。帰りの羊毛は、荷台の右側に、台の奥から詰めます。濡れやすい面を、覆いの中に入れて。そのために、行きの荷は、左に寄せて積んでおくのでございます」
手代は、荷台の縁を叩いた。
「帰りの荷の場所は、行きのうちに作っておくものでございます」
管理役と手代が、荷台の前に二人並んで、箱を寄せ始めた。係と若い係が、それに合わせて箱を動かす。誰も、窓の方を振り向かなかった。誰も、領主に判断を求めなかった。
右側に、一人分の羊毛を詰める空きが、ゆっくりとできていく。
クラリッサは、その様子を、帳面に書き取った。手が少し震えていた。
自分がいなくても、知っている人どうしで、解けていく。それが、嬉しいのか寂しいのか、よく分からなかった。
半刻遅れで、試験の便は、倉庫の門を出た。
*
昼前、若い係が、馬で戻ってきた。
試験の便は、町の外れの家々を先に回り、そのあと遠い村へ向かう道に出ている。若い係は、途中までついていき、そこで報告のために引き返してきたのだった。
事務部屋の戸口で、息を整えながら、報告書を差し出した。
クラリッサは、窓のそばを離れなかった。テオが受け取り、読み上げてくれる。
戸口配達のうち、一軒には、前もって届け先の変更が伝えてあった。母親が、娘の家へ移っていたのだという。若い係は、その変更を控えで確かめ、娘の家の戸口へ届けた。
もう一軒は、留守だった。若い係は、届かなかった、の欄に書いた。そのうえで、隣の家に預け、受領証に、配った者と、預かった隣人の、両方の名を書いた。
テオが読み終えると、若い係は、少し照れたように付け加えた。
「届かなかった家には、こうすると決めてありましたので」
クラリッサは、その言葉を、帳面に写した。
ハンスの代筆の件のあとで、二人の名を書くようにと決めた。市場の訪問のあとで、受取方法の欄を作った。届かなかった、の欄を、間違えた時に書く場所として、最初に作った。
どれも、自分と夫が、紙の上で決めたことだった。それが今、紙の外で、若い係の手で動いていた。しかも、前の試験のときより、書き込みが短く、落ち着いていた。
「ありがとう」
思わず、そう言いかけた。夫の声で。
テオが、横から、代わりに言った。
「よくやった。休んで、昼を食え」
若い係は、頭を下げて出ていった。
クラリッサは、報告書を閉じ、報告書の書き出しを考え始めた。
*
午後の早いうちに、報告書の下書きを書き終えた。
半刻の遅れは、隠さずに書いた。荷台が予定より狭かったことも。留守の一軒のことも。
その上に、一番目の成果として、書いた。
荷台が足りないと係が声を上げた時、イネスの手代と倉庫の管理役が、書付を見て相談し、行きの荷の積み方を変えて解いたこと。誰も、一人で抱えなかったこと。窓の内側に、判断を求めた者はいなかったこと。
書き終えて、読み返した。
出発したことが、成果ではなかった。便は、満点ではなかった。けれど、困った時に、困ったと言えた。言えた相手が、領主ではなく、隣で荷を積んでいた人だった。
「困ったと書けたことも、今回の成果です」
小さく、声に出した。
事務部屋の戸口に、灰色の普段着の人影が立っていた。
ローレンスが、妻の身体で、ずっと入口の脇に立って見ていたらしかった。昨夜の約束どおり、口を挟まなかった。部屋の隅から、窓の外を見ていた。
クラリッサは、報告書の下書きを、黙って差し出した。
ローレンスは、受け取って、細い指で一行ずつ追った。半刻の遅れのところで少し止まり、荷台のところで少し止まり、最後まで読んだ。
何も直さなかった。
紙を返すとき、ローレンスは、ほんの少しだけ、目を細めた。
その夕方、近くまで戻った馬の上から、遠い村の受取所の係が、一枚の短い知らせを託してきた。
――荷卸しの時刻を、午後にも人手を置くよう合わせていただいたので、昼過ぎに着いた荷を、今日のうちに下ろせました。
クラリッサは、その一行を、報告書の末尾に書き足した。




