第43話「二人がいない半日」
扉を閉めた書斎の中で、二人とも、廊下の足音を数えないようにしていた。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。昨夜十時、控室で、その夜の零時のことを確かめた。続けることに、どちらも異を唱えなかった。
朝食のあと、二人は書斎にこもった。
机の上には、一昨日から届き始めた書類が積んである。補給隊の担当が出した、北の拠点ごとの最低の量と予備。民政局の担当が出した、受取所ごとの最低の量。運べる荷馬車の枠。同じ書式で、並べて読めるようにと、夫が命じたものだった。
「今日の午前は、これに専念しましょう」
クラリッサが言うと、ローレンスは頷いた。
窓口は、マルタ。巡回は、テオ。倉庫は、管理役。三人には、昨夜のうちに伝えてあった。呼ぶ基準も、それぞれの担当に渡した。窓口は、今夜の火がない、食べるものがない、病人がいる。軍は、国境の事故と、火事。
「困った時だけ、呼んでください」
朝、マルタにそう言って、扉を閉めたのだった。
書類を開く。紙の端を揃え、一行目を読む。
最初の四半刻、二人とも、同じ行を何度も読んでいた。クラリッサは、隣の相談室から、かすかに人の声が聞こえる気がして、耳を澄ましかけては、やめた。向かいのローレンスも、窓の外の庭に、何度か目をやっていた。
目が合った。
二人とも、少しだけ笑った。同じことを、同じ顔でしていたのが、おかしかった。
そのとき、扉が叩かれた。
*
入ってきたのは、侍女の一人だった。学習会の日程を引き継ぐことになった、あの若い侍女だ。
「奥様、お仕事中に申し訳ありません。学習会のお部屋の暖炉の薪のことで、少し」
侍女は、手を組んで続けた。
「今日の午後に使う分を、どれくらい出していいか、迷いまして」
クラリッサは、反射的に口を開きかけた。去年の冬の使い方なら、よく覚えている。人数と、部屋の広さと、外の寒さ。それで、薪の量は決まる。
けれど、これは、緊急の三つのどれにも当たらなかった。今夜の火がない、でも、食べるものがない、でも、病人がいる、でもない。
「それは、あなたとマルタで決めて」
クラリッサは、侍女の顔を見て言った。
「去年の薪の量は、帳面に書いてあります。それを見て、今日の人数と寒さで、考えてみて。迷ったら、マルタに」
侍女は、少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「分かりました。やってみます」
扉が閉まった。
クラリッサは、息を吐いた。答えは、分かっていた。分かっていたのに、答えなかった。答えない方が、ずっと難しかった。
続いて、扉が叩かれた。今度は、書記だった。
「旦那様。ホルスト様の寄付の布が、明日届くそうです。受け入れの日取りを、どのようにいたしましょうか」
ローレンスは、書類から顔を上げた。
「オズワルドに任せてある。家令に聞いてくれ」
書記は、一礼して下がった。
扉が閉まるとき、ローレンスが、小さく言った。
「それは、あなたたちで決めていいことだ」
聞こえなかったふりをして、クラリッサは書類に目を戻した。夫も、答えを知っていたのだろう。知っていて、渡した。
昼の鐘が鳴るまで、扉は、もう叩かれなかった。
*
昼、マルタ、テオ、オズワルドの三人が、書斎に報告に来た。
三人とも、紙を持っていた。それぞれの紙は、真ん中に線が引いてあり、左に、片づいたこと。右に、まだ片づいていないこと。
「片づいたことと、片づいていないことを、分けて書いてまいりました」
マルタが言った。
マルタの左の欄は、長かった。
民政局から、兵の母の扶助についての返事が届いたこと。仕送りがあれば、母も扶助の対象になる、とのこと。マルタは母親に会って、息子から仕送りがあったかを、ゆっくり確かめた。あった、と母親は答えた。その場で、書記と二人で、申請を手伝った。
元大工の男のこと。職人組合に、貸し道具の仕組みがあると分かった。書記が男に知らせに行き、男は、今日の午後、組合へ行くという。
オズワルドが続けた。
「南の仕立て屋の荷が、明日、こちらに着くとの知らせがございました。半数分でございます」
どれも、自分が気にしていた件だった。何も言わずに、片づいていた。
クラリッサは、紙を見つめた。
不在のあいだに、持ち越していたことが、一つずつ進んでいた。自分が頭の中で抱えていた、あの人のこと、この人のこと。それが、マルタの控えと、書記の手で、片づいていた。
「分かりました。ありがとう」
それしか言えなかった。胸の奥で、何かが、静かに緩んだ。
それから、テオの紙を、ローレンスが受け取った。
「右の欄は、一件だけです」
テオが言った。
「国境の拠点の、人手の件です。交代の要員の一人が、熱を出しまして。明日の補給便の積み込みに、人手が足りなくなりそうです」
ローレンスの顔が、わずかに引き締まった。
「詳しい話は、午後に聞く」
テオが頷いた。
*
三人が下がると、書斎は静かになった。
必要な量の一覧の整理が、思ったより早く終わった。軍の分と、町の分を、同じ形に並べた表が、一枚の紙にまとまっている。クラリッサが、それを夫の方へ押しやった。
ローレンスは、紙を見下ろして、少し考えていた。
「それなら」
顔を上げた。
「午後に、試験の便の段取りを、もう一度、君と確かめよう」
言いかけて、ローレンスは、止まった。
クラリッサの机の上に、予定表が広げられていた。午後の欄に、自分の字で、小さく書いてある。試験の準備。
夫の目が、その欄に留まった。
「試験の便の段取りは、受取所の係と、若い係と、倉庫の管理役に、お任せしてあります」
クラリッサは、静かに言った。
「私は、記録を受け取るだけです。……午後は、自分の勉強の時間にしたくて」
ローレンスは、しばらく黙っていた。それから、言いかけた言葉を、引っこめた。
「……いや。君の午後は、君の予定だ」
それだけだった。それ以上は、何も足さなかった。
クラリッサは、少しだけ驚いて、夫を見た。
半日、空いた。空いた時間に、新しい仕事を入れることもできた。この人は、いつもそうしてきたはずだった。空いたところを見つけると、そこを埋める人だった。
今、夫は、自分の予定表の欄を、そのままにしてくれた。
静かな安心が、胸に広がった。
ローレンスが、書類をまとめ、立ち上がった。
「テオの件を、聞いてくる」
その背中が、書斎の扉の向こうへ消えた。
廊下から、足早に近づいてくる靴音がした。テオの靴音だった。二人は、扉のすぐ外で、短く言葉を交わしていた。低い声が、途切れ途切れに聞こえる。拠点。人手。補給便。
しばらくして、ローレンスが、書斎に戻ってきた。
顔つきが、さっきと違っていた。
「これは、どうしても、人に任せにくい」
夫は、独り言のように言った。




