第42話「私が続けたい仕事」
続けたい理由と、手放したい理由を並べてみると、どちらの欄にも、同じくらいの重さで人の顔が浮かんだ。
昼食のあと、クラリッサは夫の書斎の机に、白い紙を一枚置いた。
夫の大きな手で、紙の真ん中に縦の線を引く。左に、続けたい理由。右に、任せたい理由。
それから、一番上に、自分がしている仕事を並べた。
冬衣の調べ。
輸送のこと。商会連合との試験の便。帰りの荷。
商いの文書。王都の試験の準備。
相談の窓口。とくに、遺族の一人ずつの相談。
学習会。
修繕。
一つずつ、左右の欄を埋めていく。
冬衣の調べは、左の欄がすぐに埋まった。月末まで、と自分で選んだ仕事だった。見本の上着で丸をつけるやり方も、受取方法の欄も、自分で考えた。最後まで見届けたい。
輸送のことも、左がすぐに埋まった。荷馬車の帰り道に値段があると知ったとき、胸がすっと開いた。荷と道と人がどう動くか。それは、結婚する前からずっと、知りたかったことだった。
商いの文書も、同じだった。昨日の夜、分からない語を一つずつ書き留めていたとき、楽しかった。
遺族の相談の行で、ペンが止まった。
続けたい理由は、書ける。ミナ・ハルト。兵の母。この三年で顔を覚えた人たち。奥様に話を聞いてもらえて安心した、と言ってくれた人たち。
けれど、右の欄にも、書けることがあった。
マルタは、今夜の火から聞いた。自分とは違う順番で、自分が聞き落としていたことに届いた。書記が同席すれば、扶助の申請もその場で確かめられる。兵の母の件で、マルタは理由と選択肢を並べ、間違えないように保留した。
自分でなくても、届く。この半月で、それを何度も見た。
学習会も、修繕も、右の欄の方が長くなった。
書き終えて、紙を見下ろした。
手放したいと書くことに、もっと罪悪感があると思っていた。けれど、右の欄の言葉は、どれも、投げ出したいという言葉ではなかった。誰かの方がうまくできる、という言葉だった。
「続けたい仕事も、手放したい仕事もあります」
夫の低い声で、紙に向かって言った。
*
夕方、灰色の普段着のローレンスが、書斎に入ってきた。
クラリッサは、紙を見せた。ローレンスは椅子に座り、一行ずつ、左右の欄を読んでいった。
読み終えるのを待って、クラリッサは口を開いた。
「輸送と、商いの文書に、軸を置きたいんです」
ローレンスが、顔を上げた。
「王都の件が決まっても、決まらなくても。荷がどう動くか、契約の言葉がどう人を動かすか。それが、私の得意で、好きなことだと思います」
好き、と口にしたとき、少しだけ声が揺れた。仕事の話で、好きという言葉を使ったのは、たぶん初めてだった。
「それから」
クラリッサは、遺族の相談の行を指で押さえた。
「遺族の方の、一人ずつの相談からは、引継ぎを終えたら、離れたいと思っています」
ローレンスは、黙っていた。
「冷たくなったからでは、ありません」
言いながら、自分の声が少し硬くなるのが分かった。これを言えば、冷たいと思われるかもしれない。三年かけて顔を覚えた人たちを、置いていくように聞こえるかもしれない。
「マルタと書記の方が、あの窓を、これから長く守れると思うからです。私が一人で覚えているより、二人で書いて、二人で決める方が、続きます」
それから、もう一つ、ずっと保留にしていたことを口にした。
「生活支援の責任者の案のことです」
ローレンスの顔が、わずかに引き締まった。
「あの案を、断るのではありません。あの形では、受けないというだけです」
冬衣も、相談も、学習会も、修繕も、燃料券も、遺族の取次ぎも、全部を、期限なしに。その形では。
「何をするかは、まだ全部は決めていません。でも、全部を背負う形には、しないつもりです」
言い終えて、クラリッサは膝の上で夫の大きな手を握った。
言い訳を、しなかった。自分で選んだことを、選んだと言えた。
ローレンスが、口を開いた。
*
「だが、君を頼りにしてきた人たちが――」
ローレンスは、そこまで言って、止まった。
自分の口から出かけた言葉を、もう一度聞き直しているような顔だった。妻の顔で。
クラリッサは、待った。
ローレンスは、しばらく黙っていた。それから、言い直した。
「困る人が出ないようにするのは、引継ぎの仕事だ」
ゆっくりとした声だった。
「それは、領地の仕事でもある。君一人の責任ではない」
クラリッサは、夫の顔を――自分の顔を――見つめた。
「困る人を出さないのは、君だけの宿題ではない」
ローレンスは、紙の右の欄を指でなぞった。
「君が何を続けて、何を渡すか。それは、君が決めていいことだ。私が決めることではない」
肩が、ふっと軽くなった。
三年間、自分がいなければ困る人がいる、と思って続けてきた。それは本当だった。けれど、困る人が出ないようにする仕組みを作るのは、自分一人の役目ではなかったのだ。
役に立つから続けるのではなく、続けたいから続ける。渡せるから渡すのではなく、渡したいと思ったから、渡せる形にする。夫は、そのどちらも、自分が選んでいいと言った。
「では、渡す形を、一緒に考えていただけますか」
クラリッサが言うと、ローレンスは頷いた。
*
二人で、新しい紙を広げた。
遺族の一人ずつの相談は、マルタと書記へ。学習会の日程と部屋は、侍女の一人へ。修繕は、リタの勤務の時間の中で。
「いつまでに」
ローレンスが尋ねた。
「冬衣の調べの期限と同じ、月末までに」
クラリッサは答えた。
それから、一つ、付け加えた。
「渡す前に、帳面に、判断の理由を書き足したいんです。この家をなぜ先にしたのか。なぜ燃料券にしたのか。今は、私の頭の中にしかないので」
役職の案が出た日、帳面をめくって、引き継げる記録がほとんどないと知った。あの日から、書き足さなければと思っていた。
「それを書く時間も、仕事の時間に入れます」
クラリッサは、予定表に書きこんだ。
「夜に押しこまないで。昼のうちに」
ローレンスが、別の欄を指した。
「試験の準備は」
「別の欄にします。書き足す作業と、混ぜないように」
渡すための記録を書くのも、仕事。試験の準備も、自分の時間として守る。どちらも、夜の残りの時間で済ませるものではなかった。
「渡すための記録を書くのも、仕事の時間にします」
書き終えた予定表を見下ろして、クラリッサは小さく息を吐いた。
自分で選んだ範囲の仕事が、紙の上に並んでいた。冬衣。輸送。商いの文書。試験の準備。それから、渡すための記録。
全部ではなかった。けれど、どれも、自分が選んだものだった。
ローレンスが、紙を見ながら言った。
「明日は、二人とも自分の身体だな」
「ええ」
「午前のうち、半日だけ、二人とも現場を離れてみないか。窓口はマルタに、巡回はテオに、倉庫は管理役に任せて」
クラリッサは、少し考えて、頷いた。




