第41話「私なら、そうしないけれど」
自分ならこうする、と思うたびに、その思いを一度、紙の外に置いてみることにした。
昨夜十時、控室で、次の四日間も零時を迎えることにした。零時を過ぎて、また夫の身体で目を覚ました。左の肩の申し送りを聞き、書斎の机に向かう。
机の上に、マルタの控えの綴りが置いてあった。昨夜、書斎に報告に来たときのものだ。あのとき、クラリッサは控えの文字を見つめただけで、何も言わなかった。言葉が出かかったのを、飲みこんだ。夜も遅かったし、夫と並んで机に向かっていた静かな時間を、そこで崩したくなかった。
今朝、改めて読み直す。
市場の受取所の分。燃料券と、直した上着を受け取りに来る家が多いところだった。いつもなら一日で配るものを、昨日の午後と、今日の午後の、二日に分けて配る、とあった。
クラリッサは、思わず眉を寄せた。夫の顔の眉が寄るのが、自分でも分かった。
二日に分ければ、受取所の係も二日出なければならない。荷を倉庫から運ぶのも、二度になる。見本の上着を掛けるのも、片づけるのも、二度。
一日で済ませれば、手間は半分で済む。
「私なら、一日で済ませたけれど」
夫の低い声で、呟いた。
窓口の代わりを頼んだのは、自分だった。迷ったら相談の順番どおりに、と決めたのも、自分だった。マルタは、迷わなかったのだろう。迷わずに、自分とは違う方を選んだ。
任せたはずなのに、胸がざわついた。手を離したものが、思っていたのと違う形で動いている。
クラリッサは、呼び鈴を鳴らした。
*
マルタは、少し緊張した顔で書斎に入ってきた。夫の顔をした妻が、自分の控えを前にしているのを見て、背筋を伸ばす。
クラリッサは、それに気づいた。この顔で呼ばれれば、叱られると思うのも無理はなかった。
「責めるために呼んだのではないの」
最初に、そう言った。
「二日に分けた理由を、知りたいの。私なら一日にしていたと思うから、どうして違う方を選んだのか、聞かせてほしいの」
マルタの肩から、少し力が抜けた。
「一日にまとめますと、受取所の前に、長い列ができるのです」
マルタは、控えの別の頁を開いた。
「前に、あの受取所で一日に配ったとき、列の後ろの方の方は、一刻以上、外で待たれました。冬の外でございます。お子さん連れの方も、お年寄りも」
クラリッサは、黙って聞いた。
「それで、待ちきれずにお帰りになったご家族が、一軒ございました。お子さんが寒さで泣き出して、それで」
「帰ってしまった家が、あったの」
「はい。その日の控えに書いてございます」
マルタが指した行を、クラリッサは読んだ。日付は、自分が窓口にいた週だった。けれど、その家のことは、知らなかった。受取所で起きたことは、受取所の係の控えにしか書かれていなかった。
「係の手間は、たしかに二日分になります。ですが、二日に分ければ、一人ひとりの待つ時間は、半分ほどになります」
マルタは、控えを閉じた。
「係の手間と、待つ人の寒さを、比べました」
クラリッサは、しばらく何も言えなかった。
自分は、係の手間を見ていた。マルタは、列の後ろで待つ人の寒さを見ていた。どちらも、同じ受取所の、同じ配給のことだった。
自分が見ていなかったものを、マルタは見ていた。
「受取の記録を、見せてもらえる? 昨日の分を」
*
マルタが受取所の様式を持ってきた。昨日の午後、一日目の分だった。
クラリッサは、夫の大きな指で、一行ずつたどった。
来た家。受け取ったもの。見本の上着で丸をつけた寸法。受取方法の欄。それから、一番下の、合わなかった、届かなかった、の欄。
届かなかった、の欄に、待ちきれずに帰った、と書かれた家は、一軒もなかった。
係の余白に、短い書き込みがあった。
――列が短く、見本の上着を羽織らせる時間が、ゆっくり取れました。
クラリッサは、その一行を何度か読んだ。
見本の上着を、子どもに羽織らせる。合うかどうかを確かめて、丸をつける。それには、少しの時間が要る。長い列の前では、係は急がなければならなかった。急げば、合わない上着に丸をつけてしまうこともある。
二日に分けたことで、その時間が生まれていた。
「今日の二日目に来る家は」
「名簿の残りの方々です。昨日来られなかった方も、今日は来られるはずです」
クラリッサは、様式を卓に置いた。
違う方法だった。けれど、何も失敗していなかった。むしろ、自分の方法で起きていたことが、起きなくなっていた。
「戻さないわ」
クラリッサは言った。
マルタが、少し驚いたように顔を上げた。
「このまま、二日に分けて。一つだけ、足してほしいことがあるの」
クラリッサは、様式の余白を指した。
「今日の二日目は、もう始まっているから、間に合わないわね。次の配給日から、二日に分ける家には、来る日を前もって伝える札を渡しておけないかしら。小さな札でいいの。そうすれば、一日目に来て、二日目だと言われて帰る家が出ないから」
マルタは、すぐに頷いた。
「次の配給日から使えるように、受取所の係に札を用意させます」
控えに、札のことが書き足された。
「私ならそうしない、は、間違っているとは違いました」
クラリッサは、自分に言い聞かせるように言った。
自分の方法を手放すことが、少しだけ誇らしかった。マルタのやり方の方が、今回は、届いていた。
*
昼前、灰色の普段着のローレンスが、書斎に入ってきた。手に、地図の筒を抱えている。
「テオが、来週の巡回の組み方を持ってきた」
ローレンスは、筒から紙を広げた。
「私の組み方と、違う」
クラリッサは、少し身構えた。前に、夫はテオの案を、半分読んだところで書きこんでしまったのだった。
ローレンスは、紙を指でたどりながら言った。
「今回は、書きこまなかった」
それから、少し照れたように続けた。
「合言葉で確かめてから、テオに理由を聞いた。私の組み方では、夜番が続く者と、続かない者が出る。テオの組み方だと、兵の休みが、均等になっていた」
クラリッサは、思わず夫の顔を――自分の顔を――見た。
「理由を聞いたら、直す理由がなくなった」
ローレンスは、紙を巻き戻した。
クラリッサは、笑ってしまった。
「私も、今朝、同じことをしました」
マルタの二日のこと。待ちきれずに帰った家のこと。札を足しただけで、方法は戻さなかったこと。
ローレンスも、口の端を上げた。
「今日は、どちらも直さなかったわけだ」
同じ練習を、二人で、別々の場所でしていた。そう思うと、少しおかしくて、少し心強かった。
ローレンスが、窓の外を見ながら、ふと言った。
「いつか、二人とも半日いなくても、仕事が回る日を作れるだろうか」
クラリッサは、すぐには答えなかった。
できるかもしれない、と思った。けれど、その前に、確かめておきたいことがあった。
「午後に、一度、自分の仕事を全部書き出してみます。何を続けたくて、何を渡したいのか。それを見てから、考えさせてください」




