第40話「知らない単語を、書き留める」
同じ言葉が、契約書の中では、まるで別の顔をしていた。
午後、イネスから小さな包みが届いた。中には、古い商業文書の写しが五通と、短い添え状が入っていた。
――試験の前に、目を慣らしておかれるとよいかと思いまして。どれも、もう取引の済んだものです。名前は伏せてあります。
クラリッサは、自室の文机に写しを広げた。
一通目は、毛織物の売り買いの約束だった。量と、値段と、運ぶ道。二つの言葉なら、読める。文の形も追える。
三行目で、また指が止まった。
引渡し。三日前、先代の契約書で書き留めた語だった。帳面の、あの頁を開く。同じ語が、ここでも、何かの「時点」を決めている。荷が港に着いた時なのか、相手の倉庫に入った時なのか、荷を調べ終えた時なのか。その時点を境に、何かが変わるらしい。
古い辞書を引いた。物を渡すこと、と書いてある。それだけだった。辞書の意味をそのまま当てると、文が通らない。
保管。検収。これも、三日前の頁にある語だった。辞書の意味では、どちらも分かる。分かるのに、この紙の中で、それが誰に何をさせているのかが、つかめない。
「同じ言葉でも、仕事の中では別の意味になるんですね」
小さく、呟いた。
二通目、三通目と読み進めた。分からない語は、帳面に書き足していく。どの写しの、何行目か。前後の文。
書き足しながら、ふと思い出した。結婚する前、父の書斎で、取引の手紙を読んでいたころのこと。分からない言い回しに出会うと、その手紙をこっそり部屋に持ち帰り、夜遅くまで辞書をめくった。分かった瞬間の、胸がすっと開くような感じ。
その感じが、指先に、少しだけ戻ってきた。
試験に通らないかもしれない怖さは、消えていなかった。けれど、怖さと同じくらい、楽しかった。
扉が叩かれた。ローレンスが、戸口から覗きこんでいた。
*
「進んでいるか」
「半分くらいは。でも、分からない言葉がいくつも」
クラリッサが帳面を見せると、ローレンスは文机の横に立ち、写しを覗きこんだ。
しばらく黙って読んでいた。それから、困ったように首をかしげた。
「軍の文書なら、分かるんだが」
ローレンスは、引渡しの語を指でたどった。
「補給の受け渡しなら、いつ、誰の手に移ったかを書く。だが、商いの言葉は分からない。これが同じ意味なのかどうかも、私には言えない」
正直な声だった。
「手伝えると思って来たんだが」
クラリッサは、思わず笑ってしまった。
「書庫に、商いの辞書はありませんか。今使っているのは、言葉そのものの辞書なので」
二人で、屋敷の書庫へ降りた。
先代の取引の綴りが並ぶ棚の、さらに奥。ローレンスが、背の高い棚の上の段から、埃をかぶった一冊を下ろした。商いの言葉ばかりを集めた、古い辞書だった。
開いてみると、引渡しの項に、何行もの説明が書いてあった。船で運ぶ場合。陸で運ぶ場合。荷を調べる前と、あと。
けれど、言い回しが古かった。先代より、さらに前の時代のものらしい。今の契約書と同じ意味なのか、二人には判断がつかなかった。
ローレンスは、辞書を閉じた。
「私には分からない。分かる人に聞こう」
クラリッサは、夫の顔を見た。
分からない、と言える人になった。そう思った。三年前なら、夫は、自分が分からないことを、妻の前で口にしなかったかもしれない。そして、たぶん、無理に何か答えていた。
今、その「分からない」が、頼もしく聞こえた。
「イネスさんに、印をつけて尋ねてみます。それが、一番確かです」
「ああ。それがいい」
二人の意見が、そこで一致した。
書庫から戻りながら、クラリッサは考えていた。分からない語は、これからいくらでも出てくる。それを一つずつ調べるには、時間が要る。
その時間を、どこから作ればいいのか。
*
夕方、相談室で、マルタと向かい合った。
「受付のことで、相談があるの」
クラリッサは、自分の予定表を卓に置いた。午前の二刻の受付に、毎日、自分の名前が書いてある。
「試験の準備に、時間がほしいの。だから、受付に私が座るのを、週の半分にしたい。残りの日は、あなたにお願いできるかしら」
マルタは、予定表をしばらく見ていた。
「わたしが受ける日に、迷ったことがあったら」
「今までどおり。オズワルドか、私に。相談の順番は、変えないわ」
「学習会と、修繕は」
「学習会の日程はそのまま。修繕も、リタの勤務の時間で」
言いながら、クラリッサは胸の奥に、まだ小さな罪悪感があるのを感じていた。窓口を減らす。それは、来る人を減らすことのように思えた。自分の夢のために、誰かの相談を後ろに回すように。
けれど、窓口は閉じるわけではなかった。マルタがいる。決まりがある。迷ったときの順番もある。
「試験の準備を、仕事の外の夜だけに押しこまないことにします」
自分に言い聞かせるように、そう言った。
マルタは、予定表に書きこんだ。奥様、週の半分。残りは、マルタ。
それから、顔を上げた。
「承知いたしました。それと、奥様のお勉強の時間に、こちらから削るようなご相談は、持ちこまないようにいたします」
クラリッサは、少し驚いて、マルタを見た。
夢のために時間を取ることを、仕事の一部として認めてもらえた。そんな気がした。
*
夕食のあと、クラリッサは写しと帳面を抱えて、夫の書斎を訪ねた。
「机の端を、お借りしてもいいですか」
ローレンスは、一瞬、目を丸くした。それから、黙って机の上の書類を片側に寄せた。
大きな机の、こちらの端にクラリッサ。向こうの端に、ローレンス。夫は、補給隊の報告を読んでいた。昨日命じた、必要な量の一覧の、最初の分が上がってきたのだという。
互いの書類は、覗かなかった。
暖炉の薪が、ときどき小さく爆ぜた。ペンの音が、二つ、重ならずに続いた。
クラリッサは、四通目の写しを訳していた。分からない語に行き当たると、つい、小さく声に出してしまう。
「……検収済みの後に、を、何と言えば」
向こうの端で、ローレンスが顔を上げた。
「分からない」
真面目な声だった。
クラリッサは、思わず噴き出した。ローレンスも、口の端をわずかに上げた。それから二人とも、また自分の書類に戻った。
会話は、ほとんどなかった。それでも、部屋の中が、なぜか温かかった。
三年間、こういう時間を、一度も持たなかった。夫の書斎は、自分が入っていい場所ではないと思っていた。夫が何を読んでいるのかも、知らなかった。自分が何をしているのかも、夫は知らなかった。
今、同じ机で、違う仕事をしている。相手の仕事を手伝うのでもなく、口を挟むのでもなく。
「黙っていても、ここにいていいんですね」
小さく言うと、ローレンスは書類から目を離さずに答えた。
「ああ」
それだけだった。それで十分だった。
扉が叩かれたのは、九時を少し過ぎたころだった。マルタが、控えの綴りを持って入ってきた。
「お邪魔して申し訳ございません。今日の午後、わたしが受けた配給の件で、ご報告を」
マルタは、控えの頁を開いた。
「燃料券と直した上着を受け取りに来る方が多い受取所の分を、一日でなく、二日に分けて配ることにいたしました」
クラリッサは、控えの文字を見つめた。
自分なら、一日にまとめていた。窓口の代わりを頼んで、マルタが、初めて自分と違う結論を出していた。
その夜、十時の控室で、二人は次の四日間も零時を迎えることにした。




