第39話「署名するのは、誰ですか」
説明は、自分の口でできた。けれど、最後の一行に誰の名前を書くのかは、自分では決められなかった。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝、鏡の前で髪を結いながら、昨夜書いた試験の便の案を、頭の中で何度もなぞった。遠い村を一か所。帰りに羊毛。覆い。荷卸しの時刻。契約とぶつかる三つの条項。
午前、会議室の卓の向こうに、ギルベルトが座っていた。灰色の上着に、膝の上の革の帳面。前に会ったときと同じだった。
隣の席には、ローレンスがいた。今日は自分の身体で、黙って卓に両手を置いている。
「昨夜の書付、拝見しました」
ギルベルトが言った。
「契約のことは、承知していただけましたか」
「はい。変えるには、商会連合の同意が要ると」
クラリッサは、案の紙を広げた。
「ですから、今日お願いしたいのは、今の契約を変えることではありません。一度だけ、試しに走らせる便のための、別の取り決めです。その結果を見てから、契約をどうするかは、改めてご相談させてください」
ギルベルトの眉が、わずかに上がった。
クラリッサは、案を一つずつ説明した。遠い村の名前。配給の荷の量。帰りの羊毛を出す家が、運び賃の一部を払うこと。羊毛には覆いを用意し、積む順番はイネスから教わったとおりにすること。荷卸しの時刻を、村で羊毛を積みこむ時刻に合わせること。
夫の身体でなく、自分の声で話すのは、思っていたより楽だった。言葉が、喉からまっすぐに出た。
ギルベルトは、黙って聞いていた。途中で一度だけ、帳面に何かを書きこんだ。
説明が終わると、ギルベルトは帳面を閉じた。
「帰りの荷が羊毛なら、町に着いてから、うちの倉庫にも入れられます。悪くない案です」
クラリッサの胸に、ふっと温かいものが広がった。案が、通じた。
ギルベルトは、少し身を乗り出した。
「それで、この案で、荷の量と費用の上限を決めるのは、どなたですか。署名は、どなたが」
クラリッサは、言葉に詰まった。
*
案を作ったのは、自分だった。説明したのも、自分だった。けれど、費用を出すのは領地だった。上限の額を決める権限は、自分の書付には書いていない。
クラリッサは、隣の夫を見た。
ローレンスは、ギルベルトに向き直った。
「領地の側の、契約の責任者は私です」
それから、クラリッサの方を手で示した。
「この案の実務の担当は、クラリッサです。荷の中身、届け先、積み方、時刻のことは、彼女に聞いてください」
ギルベルトは、二人を見比べた。それから、少し笑ったような顔で言った。
「ご夫婦でいらっしゃいますから、どちらがお答えになっても同じことでしょう」
穏やかな声だった。悪気はなかった。夫婦なのだから、一つの財布で、一つの判断だろう。そう思っている顔だった。
「同じではありません」
クラリッサは、思わず言っていた。
ギルベルトの目が、こちらへ向いた。
「私が答えられることと、夫が決めることは、別です。夫婦だから、ではなく、それぞれの仕事として、お話しさせてください」
言ってから、少しだけ胸が速くなった。けれど、引っこめなかった。
ローレンスも、短く言った。
「私と妻のことは、この契約には関わりがない。領主と、調べの担当として扱ってほしい」
ギルベルトは、しばらく黙っていた。それから、帳面を開き直した。
「承知しました。では、そのように」
その場で、ローレンスは懐から、数日前の朝に作った調査担当の書付を取り出した。担当の範囲は、閲覧と質問と報告のみ。支出や配給の方法を変える決定は含めない。そう書いてある。
「実務の担当、と言うなら、紙にも残しておく」
ローレンスはペンを取り、余白に一行書き足した。
――月末まで、商会連合との試験便について、実務の担当を務める。費用と契約の決定は含めない。
日付と署名を添える。クラリッサも、その下に自分の名を書いた。
口で言うだけでは、また忘れる。夫は、もうそれを分かっていた。
*
「では、エルヴェイン様」
ギルベルトは、クラリッサの方を向いた。
「この便で、配給の荷を倍にしていただくことはできますか。倍なら、帰りの空きも少なくなって、こちらの手間も減るのですが」
試すような声だった。クラリッサには、それが分かった。
答えたくなった。倍なら、遠い村の家々に、もっと上着と薪が届く。倉庫には、南から着いたばかりの荷もある。できます、と言えば、話は早く進む。
けれど、荷の量を増やせば、運び賃も増える。その金を出すと決めるのは、自分ではなかった。
「それは、私が約束できることではありません」
クラリッサは、はっきり言った。
「荷の中身と、届け先と、積み方なら、私がお答えします。でも、荷を倍にするかどうかは、費用の上限に関わります。それは、領地の責任者が決めることです」
ローレンスは、口を挟まなかった。隣で、黙って聞いていた。
クラリッサは、その沈黙が嬉しかった。ギルベルトの問いを、夫が代わりに引き取らなかった。自分に向けられた問いに、自分が答え終わるまで、待っていてくれた。
「私が答えられることと、約束できることは違います」
もう一度、言った。
線を引くことは、自分の発言を小さくすることだと思っていた。けれど、違った。答えられる範囲を決めておけば、その範囲で答えたことは、誰にも取り次がれずに、そのまま受け取ってもらえる。
ギルベルトは、帳面に何かを書いた。それから、顔を上げた。
「よく分かりました。では、条件の話をいたしましょう」
*
費用の上限は、ローレンスが示した。
昨日、オズワルドが帳簿で確かめた、今月の残りの額。橋の補強の費用がすでに出ていること。前払いの分を払っても、雪の前の燃料の分が残るように。
ローレンスが額を言うと、ギルベルトは頷いた。
「それと、やめる条件を」
クラリッサが言った。
「うまくいかなかった時に、どこでやめるかも、先に書いておきましょう」
三人で、一つずつ決めた。
雪で道が危うくなった時。羊毛が濡れて、売れない状態になった時。費用が上限を超えそうになった時。どれか一つに当たれば、その便は、帰りの荷を積まずに戻ってくる。
ギルベルトが、それを書きとめた。
「荷卸しの時刻は、どうなさいますか。今の契約では、午前の一刻のみですが」
「この便に限って、受取所の側が、午後にも人手を置くことにします」
クラリッサが答えると、ローレンスが続けた。
「その分の係の手間は、領地が出す」
結果が、どうなるかは分からなかった。羊毛が売れるかどうかも、道が持つかどうかも。けれど、分からないことを、分からないまま紙に書いておくことはできた。それだけで、少し安心した。
試験の便は、三日後、と日が決まった。
ギルベルトが帰ったあと、クラリッサは会議室に残り、夫に言った。
「当日の段取りは、受取所の係と、市場生まれの若い係と、倉庫の管理役の方に任せたいんです。私は、記録を受け取るだけにします」
三日後は、交換の日でもあった。どのみち、担当として現場には立てない。
けれど、それだけが理由ではなかった。
「この便は、私がいなくても走るかどうかの、試しにもしたいんです」
自分の手から離して、案が動くかどうか。もし王都へ行くなら、いつかは全部を誰かに渡さなければならない。その最初の一つだった。
ローレンスは、少し考えてから頷いた。
「その方がいい。私も、当日の補給の便とぶつからないかを、テオに確かめさせる」
最初の試験の便は、自分の引継ぎの試しも、兼ねることになった。




