第37話「帳簿を読む、教わる」
数字は合っていた。合っていたのに、間違っていた。
零時を過ぎて、また夫の身体で目を覚ました。控室で、冷えると左の肩が張ることを申し送られ、クラリッサは右の引き出しの膏薬のことを思い出した。昨夜十時、続けると二人で確かめてあった。
夫の書斎の卓に、紙を三枚並べた。
一枚は、ギルベルトが置いていった、遠い村への一往復の費用の紙。一枚は、昨日の午後に書き写した、北の拠点の人数と日数。もう一枚は、自分の調査の、町の受取所ごとの数。
帰り荷を積んだら、一往復の費用はどれだけ下がるのか。それを、試算してみようと思った。
物資を用途ごとに分けて並べるのは、得意だった。冬衣の調査でも、四つの分類でも、そうしてきた。今度は、荷馬車の費用を分ければいい。
飼い葉。御者の手当て。車輪と荷台の手入れ。雪の季節の保険料。それぞれの額を、ギルベルトの紙から写す。そこに、帰りの荷の運び賃を、羊毛を出す家が払ってくれる分として差し引く。
夫の大きな指で、細かな数字を書きこんでいく。何度か桁を確かめ、足し、引いた。
一往復の費用が、目に見えて下がった。
「帰りに荷があれば、これだけ下がります」
思わず、声に出していた。夫の低い声で。
数字が、自分の言いたかったことを、そのまま形にしてくれた。空の荷馬車ほど高くつくものはない。イネスの手紙の一文が、紙の上で正しかった。
胸の奥に、小さな手応えがあった。物資の整理なら、自分にもできる。それを、ちゃんと数字にできた。
扉が叩かれ、オズワルドが帳簿を抱えて入ってきた。王都の宿代の続きを持ってきたのだという。
家令は、卓の上の試算に目を落とした。しばらく黙って見ていた。
それから、静かに首を傾げた。
*
「旦那様」
オズワルドは、領主の顔に向かって言った。それから、中に誰がいるのかを思い出したように、少しだけ言い直した。
「……奥様。差し出がましいようですが」
家令は、卓の向こうから、試算の紙の一か所を指した。けれど、指がなかなか紙に届かない。言いにくそうに、目の前の顔をうかがっている。
クラリッサは、その様子を見て、思わず笑ってしまった。
「言いにくいでしょう。この顔だと」
オズワルドは、少し驚いたように目を見開いた。
三年間、この家令は、夫の顔に向かって間違いを指摘したことなど、ほとんどなかったのだろう。領主の書いた紙に、首を傾げる。それがどれほど気の重いことか、夫の顔をしている今、クラリッサにはよく分かった。
「中にいるのは私です。遠慮しないでください」
オズワルドは、小さく咳払いをした。それから、今度ははっきりと、紙の一か所を指で押さえた。
「荷馬車と荷台の手入れ、それから保険の料は、一往復ごとにかかるものではございません。一年にいくら、と決まっておりまして、便が一度でも十度でも、ほとんど変わりません」
「一年に、いくら」
「はい。一方で、飼い葉や御者の手当ては、走らせた分だけかかります。ギルベルト様の紙は、一往復あたりに割ってお書きになっていますが、それは毎年の分を便の数で割ったものでございます」
クラリッサは、自分の試算を見下ろした。
毎年かかる費用と、一度ごとにかかる費用が、同じ欄に並んでいた。それを一往復分として、帰りの荷で差し引いていた。帰りの荷で浮くのは、本当は、走らせるたびにかかる分の一部だけなのかもしれない。
数字は、全部合っていた。足し算も引き算も、間違えていない。間違えていたのは、何と何を同じ欄に置いたか、だった。
頬が熱くなった。さっきの手応えが、少し恥ずかしいものに変わっていく。
けれど、それより先に、知りたいという気持ちが来た。
「ここは分かりません。教えてください」
クラリッサは、はっきりと言った。
オズワルドは、少しのあいだ黙っていた。それから、帳簿を卓に置き、椅子を引き寄せて座った。
「では、順にご説明いたします」
*
オズワルドは、商会連合との古い契約の写しと、屋敷の帳簿を並べた。
「まず、運び賃の払い方でございます。商会連合の便は、走らせる前に、運び賃を払うことになっております。前払いでございます」
「帰りの荷の分は」
「羊毛を出す家が払う分は、荷を町で売ったあとに入ってまいります。後払いでございます」
クラリッサは、二つを頭の中で並べた。先に出ていくお金と、あとから入ってくるお金。
「一年を通して見れば、帰りの荷があった方が、たしかに安くなるかもしれません」
オズワルドは、帳簿の今月の頁を開いた。
「ですが、便を走らせると決めたその月に、先に払う分の金が手元になければ、走らせることはできません」
家令の指が、帳簿の一行を示した。橋の補強の費用。今月の頭に、すでに出ている。
「今月は、こちらが出ておりますので」
クラリッサは、その行を見つめた。
橋の補強は、記念日の夜の事故のあとのものだった。夫が現場へ向かい、翌日に補強させると言った、あの橋。あの出費が、今月の手元の金を、もう削っていた。
「安くなることと、今払えることは、別でございます」
オズワルドの言葉は、穏やかだった。
クラリッサは、自分の試算に足りなかったものが何なのか、ようやく分かった。費用の大きさだけを見ていた。いつ払い、いつ入るのか。時間の軸が、どこにもなかった。
夫は、これを毎月見ているのだ。いくらかかるかだけでなく、今月払えるかどうかを。
「では、もう一度、直します」
クラリッサは、新しい紙を引き寄せた。
*
試算を、欄から作り直した。
一年にかかる費用。一度ごとにかかる費用。その二つを、別の欄に分ける。
その横に、もう一つ欄を足した。払う時期。前払い。後払い。荷を売ってから。
数字を写し直していくと、帰りの荷で下がる額は、さっきより小さくなった。それでも、ゼロではなかった。走らせるたびにかかる分のうち、いくらかは、帰りの荷で取り戻せる。
けれど、保険の料がどう決まるのか。覆いを用意したら、それは一年の費用か、一度の費用か。自分では分からない欄が、いくつも残った。
クラリッサは、分からないところに、小さく印をつけた。家令の確認が要る、と書き添えて。
書き終えて見ると、印は思ったより多かった。
扉が開き、灰色の普段着のローレンスが入ってきた。妻の身体で、卓の上の試算を覗きこむ。印のついた欄を、一つずつ目で追った。
クラリッサは、少し身構えた。こんなに分からないところがあるのか、と思われるかもしれない。
ローレンスは、驚いた顔をしなかった。
「それでいい」
短く言った。
「分からないところが、どこか分かっている。それが一番だ」
クラリッサは、思わず夫の顔を――自分の顔を――見た。
「分からないところに、分からないと書いておきます」
そう言うと、ローレンスは小さく頷いた。
不得意なことを、隠さずに紙に残す。全部を自分で直そうとすれば、また間違える。それを、今日一つ覚えた。
オズワルドが、帳簿を閉じながら、ふと付け加えた。
「そういえば、奥様。商会連合の便の枠ですが、毎年、前払いの早い商会から順に押さえていくのでございます。冬の便は少のうございますから、払いの早いところほど、よい日の便を取っております」
クラリッサは、ペンを止めた。
払える者から、先に道を取っていく。その仕組みも、紙の上には書いていなかった。




