第35話「その条件は、撤回する」
線で消された一行は、消されたあとも読めた。だから、消したのが誰なのかも、はっきり分かった。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝、自分の指で髪を梳き、自分の声で侍女に挨拶をした。それだけで、昨日の書斎の冷たさが、少し遠くなった気がした。
相談室で、イネスへの返事を書いていた。昨日下書きした十を超える問いを、自分の手で清書していく。ホルストへの礼状にも署名を入れた。どちらも、昼までにマルタに預けるつもりだった。
扉が叩かれた。
ローレンスだった。自分の身体に戻った夫は、手に紙を三枚持っていた。昨日、書斎の卓に残していった護衛の案だ。
「読んでほしい」
クラリッサは、黙って受け取った。
一枚目と二枚目は、昨日と同じだった。道と宿場。護衛の二人。
三枚目の最後の項に、二本の線が引いてあった。
――移動は、すべて伯爵の許可を要する。護衛は、日ごとの行き先を伯爵に報告する。
その二行の上に、夫の字で、まっすぐに二本。線の横に、今朝の日付と、ローレンス・エルヴェインの署名が添えてあった。
消された文字は、まだ読めた。読めるように消してあった。誰が書き、誰が消したのか、紙を見れば分かるように。
クラリッサは、顔を上げた。
「昨夜、あの一行を、何度も読んだ」
ローレンスは言った。声は低く、静かだった。
「誰の不安が書いてあるのかを考えた。君が危ないと思ったのは本当だ。でも、許しを要ると書いたのは、君のためではなかった。私が、知らないところで君に何かが起きるのが、怖かった」
ローレンスは、二本線の上に指を置いた。
「不安なのは私だ。それを、君の条件にしてしまった」
クラリッサは、すぐには何も言えなかった。
謝罪の言葉は、前にも聞いた。会議を断ったのは私だった、と。あのときも、嬉しかった。けれど、言葉だけなら、また同じことが起きるかもしれないと思っていた。昨日、それが起きた。
今日は、言葉より先に、線があった。夫が自分の手で引いた、二本の線が。
張りつめていた何かが、少しだけゆるんだ。
*
「消してくださって、ありがとうございます」
クラリッサは言った。
それから、紙を卓に置いて、もう一つ、言わなければならないことを口にした。
「それと、お願いがあります」
ローレンスが頷く。
「護衛を誰にするか、私も選びたいです。この二人がどんな方なのか、お会いして、話をしてから決めたい」
二枚目に書かれた二人。道に慣れた元兵士と、王都の事情に詳しい者。夫とテオが選んだのだから、腕は確かなのだろう。けれど、何日も一緒に旅をして、王都で自分の行き先を知る人たちだった。
「守ってくださる人を、私も選びたいです」
ローレンスは、迷わなかった。
「分かった。候補の名前だけを書き出す。決めるのは、君が会ってからだ」
それは、昨日までの夫なら言わなかった言葉だった。クラリッサは、守られる側にいるだけではなく、守る人を選ぶ側にもいていいのだと、少し不思議な気持ちで思った。
「それなら、護衛の役目も、書き直しませんか」
クラリッサが言うと、ローレンスは三枚目の紙を引き寄せた。
*
二人で、卓の上に新しい紙を広げた。ローレンスが言い、クラリッサが言い直し、ローレンスが書いた。
護衛は、移動のあいだと宿での、身辺の安全を受け持つ。
仕事の行き先と予定は、本人が決める。
護衛は、業務のあいだに知ったことを、他言しない。
危険が差し迫った時だけ、護衛の判断で動いてよい。
「報告は」
クラリッサが尋ねると、ローレンスは少し考えてから書いた。
――事故や危険があった時のみ、伯爵と本人の双方に知らせる。
日ごとの行き先を報告する項は、もうどこにもなかった。
書き終えると、ローレンスは紙の余白に目をやった。それから、ペンを持ち直し、もう一行書き足した。
――クラリッサが担当として決めたことを変える時は、変える前に、本人に確かめる。
クラリッサは、その一行を読んで、顔を上げた。
一週間前の夕方、控えの間で、夫は言った。変える前に確かめる。口で言うだけでなく、紙に書いて残しておく、と。
その紙が、ようやくここにあった。
「口で言っただけでは、また忘れる」
ローレンスは、ペンを置いた。
「昨日、忘れていた。だから、書いておく」
責めるつもりで黙っていたわけではなかった。それでも、夫が自分から、そのことを口にしたのが、クラリッサには大きかった。二度目の過ちを、言い訳ではなく、紙で上書きしようとしている。
それで全部が消えるわけではない。三度目がないと、言い切れるわけでもない。けれど、少なくとも、次にこの紙を見せることはできる。
ローレンスが署名し、その下に、クラリッサも自分の名を書いた。クラリッサ・エルヴェイン。
*
紙が乾くのを待つあいだ、ローレンスは窓の外を見ていた。冬の庭に、薄い日が差している。
「一つだけ、言っておきたい」
ローレンスは、窓の方を向いたまま言った。
「君に、帰ってきてほしいとは思う」
クラリッサは、手を止めた。
「それは隠さない。でも、それを、君の旅の条件にはしない。護衛の紙にも書かない。君が王都で仕事を続けたいと思ったら、それを止める理由にもしない」
ローレンスは、ようやくこちらを向いた。
「帰ってきてほしいと思うのは、私の気持ちだ。君の予定ではない」
クラリッサは、何と答えればいいのか分からなかった。
帰ると約束することは、できなかった。王都へ行くと決めたわけでもない。結婚のことも、まだ保留のままだ。夫の言葉を受け取ることはできても、それに答えを返すことは、今はできなかった。
だから、答えなかった。
代わりに、一つだけ、夫に聞いてみたいことがあった。
「では、一つ、教えていただけますか」
ローレンスが、少し身を乗り出した。
「冬の迂回路と、まだ雪の浅いうちに南の峠を越える道と。試験の日がまだ決まっていないなら、どちらを考えておいた方がいいでしょう」
自分から、夫に助言を求めた。昨日の衝突のあとで、それが少し不思議だった。けれど、道のことは、夫の方が知っている。それは、昨日も今日も変わらなかった。
ローレンスは、すぐには答えなかった。それから、決めつけずに、二つの道を並べて話し始めた。峠なら早いが、雪が来れば閉じる。迂回路なら遅いが、閉じにくい。どちらがいいかは、試験の日と、君がいつ発ちたいかで変わる。
クラリッサは、それを帳面に書き留めた。どちらかに決めるためではなく、選ぶために。




