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離婚寸前の辺境伯夫妻は、なぜか毎晩入れ替わる  作者: 南野遥
第3部 守ることと、決めること

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第34話「護衛と、監視のあいだ」

 

護衛の人数も、宿場の名前も、よく調べてあった。だからこそ、最後の一行だけが、ほかの全部を塗り替えた。


昼食のあいだ、クラリッサは走り書きの最後の行を考えないようにしていた。急ぎの下書きだ、とローレンスは言った。清書のときに、きっと変わる。そう思うことにした。


午後、灰色の普段着のローレンスが、清書した案を持って書斎に戻ってきた。テオと一緒に詰めたのだという。


案は、三枚にわたっていた。


一枚目は道のこと。今の雪なら、南の峠はまだ越えられるが、深くなれば閉じる。そのときは東へ迂回し、王都まで十日ほど。泊まる宿場の名前と、それぞれの宿の主人の評判まで書いてある。


二枚目は護衛のこと。腕の確かな者を二人。一人は道に慣れた元兵士、一人は王都の事情に詳しい者。


三枚目は王都のこと。泊まる宿の候補が三つ。商会からの距離と、夜の通りの明るさ。


クラリッサは、一行ずつ読んだ。感心していた。道のことなら、自分ではここまで調べられなかった。宿場の評判も、夜の通りの明るさも、考えもしなかった。夫とテオは、この半日で、本気で自分の旅を考えてくれたのだ。


三枚目の最後の項に、来た。


――移動は、すべて伯爵の許可を要する。護衛は、日ごとの行き先を伯爵に報告する。


昼の走り書きと、同じだった。清書で、むしろ一行増えていた。


クラリッサは、紙を卓に置いた。


感心していた分だけ、胸の底が冷えていった。これほど丁寧に、これほど本気で考えてくれた案の、一番最後に、これがある。


「これでは、王都へ行く意味がありません」


自分の声が、夫の喉から低く出た。


ローレンスは、驚いたように顔を上げた。


  *


「冬の道は、君が思うより危ない」


ローレンスは言った。妻の声で、けれど夫の話し方で。


「峠で雪に閉じこめられた商人は、毎年いる。宿場でも、旅の女が一人だと狙われることがある。王都も、夜の通りは安全とは言えない。何かあったとき、すぐに知らせが来るようにしておきたい」


一つずつ、筋が通っていた。夫が自分の安全を本気で考えているのは、分かった。


「道を調べてくださったのは、本当にありがたいです」


クラリッサは、まずそれを言った。嘘ではなかった。


「宿場のことも、護衛のことも、私には分からないことでした。だから、お願いしたんです」


それから、三枚目の最後の行を、指で押さえた。


「でも、これは道の話ではありません」


ローレンスが、黙った。


「試験を受けに行くのも、商会に通うのも、毎日、あなたの許しを待つなら、それは仕事ではありません。誰かの許しをもらって、外に出してもらっているだけです」


言いながら、クラリッサは思い出していた。市場の訪問のこと。あの日、夫は、変える前に確かめると言った。一週間前にも、控えの間で同じことを言った。口で言うだけでなく、紙に書いて残しておく、と。


その紙は、まだどこにもなかった。代わりに、この紙があった。


「それに、護衛が私の行き先を、毎日あなたに報告するなら」


クラリッサは、言葉を選んだ。


「その人は、私を守る人ではなく、私を見張る人になります」


ローレンスの顔が、わずかに強ばった。


「見張るつもりはない」


「つもりがなくても、この紙では、そうなります」


「護衛が私の予定を決めるなら、それは別の仕事です」


二人の声が、少しずつ硬くなっていくのが分かった。


  *


「君に何かあったら」


ローレンスが言いかけた。


妻の声だった。自分の声が、自分に向かって、君に何かあったら、と言っている。その先に続く言葉を、クラリッサはもう知っていた。三年間、何度も聞いた形だった。君に何かあったら困るから。君が無理をする必要はないから。


「その声で、そう言わないでください」


自分でも驚くほど、きつい声が出た。


ローレンスが、口を閉じた。


クラリッサは、膝の上で夫の大きな手を握った。指先が冷たかった。


「すみません。でも、私の声で、私を縛る言葉を聞くのは、つらいんです」


しばらく、二人とも何も言わなかった。暖炉の薪が、小さく爆ぜた。


このまま続ければ、言ってはいけないことを言う。どちらかが。クラリッサには、それが分かった。そして、たぶん夫にも分かっていた。


「今日は、ここまでにしましょう」


クラリッサは言った。


「続きは、私が私の身体で話せる日に」


ローレンスは、長いあいだ黙っていた。それから、短く頷いた。


「……分かった」


決めずに終わる。それは、逃げることではなかった。今日の二人では、決めない方がいいと、二人で決めただけだった。


クラリッサは、午前に書いたイネスへの問いの下書きを、卓の上に置いた。自分が王都で何を確かめたいのか。それを、夫に読んでおいてほしかった。


ローレンスは、護衛の案の三枚を、卓の上に残した。


互いの紙を、互いの側に置いたまま、二人は別々に書斎を出た。


  *


自分の部屋の文机に向かうと、クラリッサは引き出しから便箋を出した。


母に、手紙を書こうと思った。


ペンを取る。夫の大きな手で、細いペンを持つ。けれど、書き始めると、字は自分の字だった。


――お母様。お元気でいらっしゃいますか。


王都の輸入商会から、仕事の話が来たこと。試験を受けてみたいと思っていること。もし王都へ行くことになったら、泊まる先のことを相談したいこと。


魔法のことは、書かなかった。書いても、信じてもらえるとは思えない。それに、これは身体のことではなく、自分の仕事のことだった。


――お母様に、相談したいことがあります。私の仕事のことです。


書き終えて、封をした。


夫を通さずに、自分の道を一本作る。王都へ行くかどうかを、夫の許しの中だけで考えなくていいように。


マルタに発送を頼もうと、廊下に出た。


角を曲がったところで、灰色の普段着の、自分の姿とすれ違った。ローレンスは、クラリッサの手の中の封書に目を落とした。宛名が、母の名だと分かったはずだった。


クラリッサは、何か聞かれると思った。誰に、何を書いたのか。


ローレンスは、何も聞かなかった。止めもしなかった。ただ、一瞬だけ足を止め、それから、黙って道を空けた。


マルタに封書を預けて戻る途中、クラリッサは、胸の中に複雑なものを感じていた。止められなかった安心。それと、止めないでいてくれたのに、昼のあの紙を書いたのも同じ人だという、割り切れなさ。


夜、自分の部屋へ戻る前に、書斎の前を通った。


扉が少しだけ開いていた。中で、ローレンスが一人、卓に向かっていた。護衛の案の三枚目を、手元に引き寄せている。


その手が、最後の行の上で、止まっていた。

 

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