第33話「王都へ行くための条件」
行けるかどうかを考えるのをやめて、何が要るかを書き出すと、夢は急に紙の重さになった。
昨夜十時、控室で、次の四日間も零時を迎えることにした。今朝、夫の身体で目を覚ましたクラリッサが最初に聞いたのは、ローレンスが妻の姿で決めた二つのことだった。橋の現場の報告を読み、巡回を元の道に戻す日を、明後日と決めたこと。それから、ホルストへの礼状は妻に任せたいということ。
クラリッサは礼状の文案だけを書いた。署名は、明日、自分の身体に戻ってから入れる。外の人に宛てる仕事の手紙は、自分の身体の日に出す。そう決めてあった。
それから、イネスの手紙を、夫の書斎の机に広げた。
試験。短期の仕事。そのあとの契約。家名では試験を省かない。この冬のうちに。
昨夜は、その言葉を読むだけで胸がいっぱいになった。今朝は、一行ずつ、分からないところを探しながら読んだ。
白い紙を一枚取り、問いを書いていく。
試験は、何を、どれくらいの時間で。訳すのは、どんな文書か。聞き取りは、誰と誰の商談か。
短期の仕事とは、どのくらいの期間か。何の文書を扱うのか。
報酬は、日ごとか、仕事ごとか。
王都での住まいは。滞在の費用は、自分で持つのか。
書いていくうちに、問いは十を超えた。一つ書くたびに、夢が少しずつ、手で持てる形になっていく気がした。
「行けるかどうかより、何を準備するか考えたいです」
誰に言うともなく、夫の低い声で呟いた。
返事は、明日書く。自分の身体で、自分の手で。今日は、この下書きを机の引き出しにしまっておく。
扉が叩かれ、オズワルドが帳簿を抱えて入ってきた。
「奥様。王都の宿代の目安を、古い帳簿から探してまいりました。先代が王都に滞在された折のものですので、少し昔の値ではございますが」
*
オズワルドは、宿代の書きつけと一緒に、もう一つ、古い紙の束を卓に置いた。
「それから、こちらを。書庫の奥にございました。先代が羊毛を外の国へ売っておられたころの契約書です。練習になるかと思いまして」
外国の言葉で書かれた、取引の契約書だった。紙は黄ばみ、角が丸くなっている。
クラリッサは、夫の大きな指で、一枚目を手に取った。
読める。二つの言葉なら、子どものころから使ってきた。文の形も分かる。羊毛の量と、値段と、送り先。
三行目で、指が止まった。
引渡し。その言葉は知っていた。物を相手に渡すこと。けれど、この文の中では、何かもっと細かいことを指しているようだった。いつ、どこで、誰の手に移った時点で、と続いている。その「時点」が、何を決めているのかが分からない。
保管。これも知っている言葉だった。物をしまっておくこと。けれど、この契約では、保管の費用を誰が持つのかが、何行にもわたって書いてある。
検収。荷を受け取って調べること、だろうか。それが終わるまで、代金を払わなくていい、とでも書いてあるのか。
一語ずつは、分かる。けれど、組み合わさった文が、何をさせるための文なのか、つかめなかった。
「この言葉は知っています。でも、この紙の中で何をさせる言葉なのかが、分かりません」
オズワルドが、申し訳なさそうに首を傾げた。
「私にも、そこまでは」
クラリッサは、イネスの手紙の二枚目を思い出した。お名前ではなく、お仕事を拝見したく存じます。
通らないかもしれない。三年のあいだ、こういう文書から離れていた。結婚する前に覚えていたことも、もう抜け落ちているのかもしれない。
その怖さと一緒に、不思議な安心もあった。家名では、通れない。辺境伯夫人だからといって、この契約書が読めるようにはならない。だから、もし通るなら、それは自分が読めたからだ。
クラリッサは、帳面の新しい頁を開いた。分からなかった語を、一つずつ書き留める。引渡し。保管。検収。その横に、どの契約書の何行目に出てきたかも。
これが、最初の宿題だった。
*
昼に近づくころ、クラリッサは、もう一枚、紙を取った。
出発の前に、決めておかなければならないことがあった。
王都へ行くには、峠を越える。この領地の境を、越える。巡りが続いているあいだに越えれば、どちらかが、相手の身体のまま向こうに残る。
だから、境を越える前に、封を閉じる。自分の身体に戻っている日に。そうすれば、巡りは止まり、それぞれの身体のままでいられる。
けれど、封は巡りを止めるだけで、結び付きは残る。台座と指輪は、結ばれたままになる。
「できれば、原本が届いてから」
クラリッサは、紙に書いた。境を越える前に、封を閉じる。できれば、王都の原本で結び付きを解いてから出る。
この冬のうち、と書状にはあった。日付は、まだない。照会の返事を待つだけの時間は、たぶんある。
それから、紙の下半分に、線を引いた。
領地で、自分が引き受けていることを、並べていく。
冬衣の調査。月末まで。
相談の窓口。今は午前の二刻、マルタと分けている。
学習会の日程と部屋。
修繕。リタの勤務の時間で。
商会連合との試験の便のこと。荷卸しの時刻、帰りの荷。
イネスとの帰り荷の相談。
書き出してみると、思っていたより多かった。どれも、自分が始めたか、自分が関わってきたことだった。
「出ていく日より先に、置いていくものを数えます」
出ていくことは、身軽になることだと思っていた。けれど、紙の上で見ると、それは誰かに渡す仕事の数だった。一つずつ、誰に、どう渡すのか。
まだ、何も決まっていない。王都へ行くと決めたわけでもない。それでも、決めるために、知っておかなければならないことがあった。
最後に一つ、自分では分からないことが残った。
冬の王都への道。どの峠が、いつまで通れるのか。宿場は安全なのか。一人で行けるのか、誰かについてきてもらうべきなのか。
それは、夫の方が知っている。
*
昼前、灰色の普段着のローレンスが、書斎に顔を出した。
「イネスへの返事は、まとまったか」
「下書きだけです。明日、出します」
クラリッサは、問いの紙を見せた。ローレンスは一行ずつ目で追い、何も言わずに頷いた。それから、出発の前提と、引継ぎの一覧にも目を通した。
「一つ、お願いがあります」
クラリッサは言った。
「冬の王都への道を、確かめていただけませんか。峠と宿場と、どのくらいの日数がかかるか。それから、護衛が要るかどうか。私には分からないので」
頼んでから、少しだけ胸が軽くなった。分からないことを、分かる人に頼む。それは、この半月で何度も練習してきたことだった。
ローレンスの顔に、はっきりと安堵が浮かんだ。自分の顔がそういう表情をするのを、クラリッサはもう見慣れてきていた。
「道のことは、私に任せてくれ」
ローレンスは言った。
「テオに今の雪の具合を聞いて、宿場の様子も確かめる。護衛の案も、すぐに作る」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、クラリッサはどこかで、小さな引っかかりを感じていた。任せてくれ。その言い方が、少しだけ、頼んだことより大きく聞こえた。
けれど、それが何なのかは、すぐには分からなかった。
ローレンスは書斎を出ていき、昼の鐘が鳴る少し前に、戻ってきた。手に、走り書きの紙を一枚持っている。
「急ぎで書いた下書きだ。テオと詰めて、午後に清書する」
クラリッサは、紙を受け取った。冬の迂回路。宿場の名前。護衛は二人。王都での宿の候補。よく調べてあった。
最後の行に、目が止まった。
――移動は、すべて伯爵の許可を要する。




