第32話「王都からの、私への依頼」
封書の宛名は、エルヴェイン辺境伯夫人ではなく、クラリッサ・エルヴェイン様だった。
自室の文机で、クラリッサは封を切った。昼に自分がイネスへ書いた返事とは、行き違いになったらしい。中には、イネスの字の手紙が一枚と、もう一枚、見慣れない印の押された短い書状が入っていた。
先に、イネスの手紙を読んだ。
去年、翻訳の仕事の話を持っていったことを覚えているか、と始まっていた。あのとき断られて、それきりにしていた。ところが先月、王都へ行った折に、取引のある輸入商会で、ある話を聞いた。北の産物を扱う文書が増えたのに、品物の運ばれ方や現場の事情まで分かって訳せる者がいない、と。
イネスは、そのときクラリッサの名前を出したのだという。去年、一度だけ頼んだ仕事の訳がよかったこと。商人との条件の詰め方を知っていること。商会の担当者は、話を聞いてみたいと言い、この短い書状をイネスに預けた。
――渡すかどうか、迷っておりました。去年のお返事のこともありましたので。
けれど、この数日、帰り荷の相談の手紙を受け取り、試しの配達の話を聞いた。荷馬車の帰り道の値段まで考える人なら、あの商会が探している人だと思った。それで、預かったものを送ることにした、とあった。
クラリッサは、もう一枚の書状を開いた。
王都の輸入商会の名と、担当者の署名。文面は短かった。北の交易に関わる文書について、お話を伺いたい。関心をお持ちであれば、詳しい条件をお伝えする。
それだけだった。採用するとも、仕事を頼むとも書いていない。話を聞きたい、というだけ。
それでも、クラリッサは書状から目を離せなかった。
結婚する前、交易の文書を訳して、商人と条件を詰める仕事がしたかった。父の書斎で、取引の手紙を読むのが好きだった。異国の言葉の向こうで、品物と人が動いていく。その仕組みを、言葉でつなぐ仕事。
その入口が、思いがけず、今、手の中にあった。
「私の名前で、私に来た手紙です」
小さく、声に出した。誰も聞いていない部屋で。
封筒の底に、もう一枚、紙が残っていた。
*
二枚目の紙には、イネスの字で、商会から聞いた条件が書き写してあった。
一つ目。王都で、試験を受けること。商業文書の翻訳と、商談の聞き取り。
二つ目。試験に通れば、まず短い期間の、報酬のある仕事から始める。その仕事の出来を見て、そのあとの契約を決める。
三つ目。家名や紹介者の推薦で、試験を省くことはしない。
最後の一行は、商会の担当者の言葉を、イネスがそのまま写したものらしかった。
――お名前ではなく、お仕事を拝見したく存じます。
クラリッサは、その一行を何度か読み返した。
辺境伯夫人だから、ではない。誰かの妻だから、でもない。自分の訳した文書と、自分の聞き取りで、判断される。
それが、怖くなかったわけではない。試験に通らないかもしれない。三年のあいだ、交易の文書からは離れていた。専門の言葉も、忘れているものがあるだろう。
けれど、家名で通れないことに、かえって胸が軽くなった。もし通れば、それは自分の仕事が認められたということになる。もし通らなければ、何が足りなかったのかが分かる。どちらにしても、自分のことだった。
時期は、と探すと、この冬のうちに王都へ来られるなら、とだけあった。日付は、まだ書かれていない。
クラリッサは、二枚の紙を重ねて、手に取った。
それから、少し迷った。
この手紙を、夫に見せるかどうか。
見せれば、夫は何か言うだろう。心配するかもしれない。王都は遠い、と言うかもしれない。三年前の秋に、無理をしなくていいと言われたように。
見せなければ、自分一人で決められる。
けれど、隠して決めるのも、違う気がした。これは、自分に来た依頼だった。誰に見せるかを決めるのも、自分だった。
クラリッサは、手紙を持って立ち上がった。
*
書斎の扉を叩くと、ローレンスの声が返ってきた。
夫は、机の前で地図を広げていた。橋の報告の封書が脇に置いてある。ホルストの封書も、まだ開けられずに、明日の朝のための場所に置かれたままだった。
「イネスさんから、手紙が来ました」
クラリッサは、机の前に立った。
「先に言っておきます。許しをいただきに来たのではありません」
ローレンスが、顔を上げた。
「私宛ての手紙です。あなたに見せようと決めたのは、私です。読んでいただけますか」
ローレンスは、しばらくクラリッサの顔を見ていた。それから、黙って手を伸ばし、手紙を受け取った。
読んでいるあいだ、クラリッサは窓の外を見ていた。暗い庭に、書斎の灯りが細く落ちている。
「結婚する前、こういう仕事がしたかったんです」
夫が一枚目を読み終えたころ、クラリッサは言った。
「交易の文書を訳して、商人と条件を詰める仕事。父の書斎で、取引の手紙を読むのが好きでした。三回目の記念日の夜にお話しした翻訳の仕事も、その続きでした」
ローレンスの指が、紙の端で止まった。
「去年、イネスさんが持ってきてくれた話を、あなたは忙しくなるからやめておけと言いました。私は、それきり諦めました。でも、本当は、ずっとやってみたかった」
責めるつもりはなかった。ただ、事実を、自分の口で言っておきたかった。
「これは、私に来た依頼です」
ローレンスは、二枚目の紙を最後まで読んだ。お名前ではなく、お仕事を拝見したく存じます。その一行のところで、少しだけ長く目が留まった。
*
ローレンスは、紙を机の上に置いた。両手をその上に重ね、しばらく何も言わなかった。
「……ここでは」
低い声だった。
「ここでは、できないのか」
言ってから、ローレンスは口を閉じた。
クラリッサは、夫の顔を見た。何かを飲みこもうとしている顔だった。役職の案を保留にした日、君がいなければ、と言いかけて止めたのと同じ顔。
長い沈黙があった。暖炉の薪が、小さく音を立てた。
「……いや」
ローレンスは、首を振った。
「条件を、もう少し聞かせてくれ」
手紙の二枚目を、もう一度、指で押さえる。
「試験は、いつだ。どこで受ける。何を準備すればいい」
クラリッサは、息をついた。
夫は、言葉を飲みこんだ。ここでできないのか、と言いかけて、それを引っこめた。代わりに、自分の知りたいことを尋ねてくれた。
それが、嬉しくないわけがなかった。
けれど、条件を答えようとして、クラリッサは自分の言葉に詰まった。
王都で、試験を受ける。
王都へ行くには、峠を越えなければならない。この領地の境を、越えなければならない。
身体が替わって間もないころ、旧い領界図の上で読んだ一行が、頭の中によみがえった。境を出づれば、巡りは止む。されど、その時の身は替わらず。
零時の巡りは、まだ続いている。今夜も、十時には控室で、明日のことを決めることになっている。この巡りが続いているあいだに境を越えれば、どちらかが、相手の身体のまま、向こうに残る。
「……まだ、何も決められません」
クラリッサは言った。
「行きたいかどうかも、今夜は決めません。でも、条件は、ちゃんと確かめます」
ローレンスは、頷いた。それ以上は、何も言わなかった。
手紙の二枚目が、机の上に広げられたままだった。二人とも、それを畳もうとはしなかった。
時計の針が、十時に近づいていた。
王都で働くなら、この領地を離れなければならない。それが、急に、手で触れられるほど近いことになっていた。




