第31話「クラリッサの報告書」
報告書の最後の行に自分の名前を書くとき、ペンが少しだけ止まった。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝食の前に、相談室の卓で、昨日夫の手で書いた報告書を読み直した。字は自分のものだった。指が太くても、書き方は変わらない。
一番下の欄。
冬衣配給 調査担当 クラリッサ・エルヴェイン。
書き終えて、しばらくその文字を見ていた。夫人、とは書かなかった。伯爵の名を添えることもしなかった。三年前、会議に出たいと言ったとき、こういう紙に自分の名前が載る日が来るとは、思っていなかった。
会議室の卓の端、書記の向かいの席に座った。もう誰も、そこに夫人がいることに驚かない。
冬支度の議題がいくつか続いたあと、ローレンスがこちらを見た。クラリッサは立ち上がり、三つの項目を読み上げた。合ったもの。合わなかったもの。届くのが遅れたもの。遅れの理由と、検討中の二つの案。
満点ではない報告だった。三つ目を読むとき、声が少しだけ硬くなった。
読み終えると、民政局の配給担当が帳面から顔を上げた。
「奥様のご報告は、伯爵様のお名前で上げるものではございませんの?」
責める調子ではなかった。いつもそうしてきた、という確認のような声だった。
クラリッサが答えるより先に、ローレンスが言った。
「その報告書は、クラリッサの仕事です」
短く、言い直しもしなかった。
それから、書記の方を向いた。
「議事録には、ほかの名前も残してくれ。受付で聞き取りの順番を作ったのはマルタ。見本の上着で丸をつけたのは、二つの受取所の係。戸口まで上着を運んだのは、市場生まれの若い係。袖を直す時間を記録したのは、洗濯場のリタ。それぞれの名前で」
書記のペンが走った。
クラリッサは、自分の名前が残る嬉しさと、それが自分だけの手柄として書かれなかった安心を、同時に感じた。どちらも、本当だった。一人でやったことではなかった。三年前は、一人でやるしかなかった。
午前のうちに報告書の写しを仕上げ、午後はマルタの報告を受け取るだけにした。気になる行が二つあったが、明後日の朝に聞くと付箋をつけた。それから、イネスへの返事を書いた。帰り荷の案に礼を言い、積み込みの時刻のことをもう少し教えてほしいと頼んだ。
窓の外の光が、少しずつ傾いていった。
*
五時半の鐘が鳴った少し後、書斎の方で人の声がした。
クラリッサが廊下に出ると、書斎の扉が開いていた。オズワルドが封書を二通持って立ち、ローレンスがそれを受け取るところだった。
「ホルスト様からのお返事と、橋の現場からの報告でございます」
ローレンスは、まず橋の報告の封を切った。目を通しながら、オズワルドに尋ねる。
「怪我人は出ているか」
「いいえ。補強の進み具合の報告と、巡回を戻す日のご判断をいただきたい、とのことでございます」
「今夜決めなければ、困ることはあるか」
「明朝で、差し支えないと存じます」
ローレンスは頷き、封書を畳んだ。国境の事故でも、火事でも、命に関わることでもなかった。
「テオに渡してくれ。中身をまとめておいてもらって、判断は明日の朝、私がする」
それから、もう一通。ホルストの封書は開けずに、差出人の名前だけを確かめた。
「中身を、一行で」
オズワルドが、預かったときに使いから聞いたことを伝えた。条件はつけず、量は先の申し出の半分を、寄付する。
ローレンスは、その封書を書斎の机に置いた。
「返礼と細かいことは、明日の朝、クラリッサとオズワルドで扱ってくれ」
それから、家令の顔を見た。
「明日の朝でいい。今日は六時に約束がある」
廊下の端で、クラリッサはその声を聞いていた。
夫が、自分の目の前で、用件を横に置いた。寄付の返事も、橋の報告も、どちらも大事なものだった。けれど、どちらも今でなくていいと、彼は自分で確かめてから決めた。三年間、こういうことは一度もなかった。
驚きと、小さな安堵が、胸の中で静かに広がった。
六時の鐘が鳴った。
*
食堂の卓は、記念日の夜より、ずっと簡素だった。
燭台は一本だけ。花は飾っていない。鍋のまま運ばれてきた煮込みと、焼いたパンと、温かい葡萄酒。温め直さなくて済むものを、と昨日言ったとおりだった。
向かいの席に、ローレンスが座っていた。
クラリッサは、自分の席に腰を下ろしながら、一瞬だけ、あの夜の空席を思い出した。銀の燭台と、白い卓布と、冷めていく料理。今日の卓には、料理が冷める前に、二人ともいた。
しばらくは、黙って食べた。それから、クラリッサは口を開いた。
「今日の報告ですが、三つ目のところで、もう少し――」
言いかけて、止まった。
ローレンスは、止めなかった。続けてくれていい、というように、ただこちらを見ていた。
けれど、クラリッサは自分で言葉を切った。今は、仕事の話をする時間ではない気がした。
「仕事の話じゃなくて、好きな本の話をしてもいいですか」
ローレンスは、少し驚いたように眉を上げた。それから、頷いた。
クラリッサは、旅の本のことを話した。三十年前に北の街道を旅した商人の記録。夫から借りた南の街道の地図と、本の宿場の名前を一つずつ照らし合わせたこと。見つかった宿場と、見つからなかった宿場。
「ある宿の主人が、変わった決まりを作っていたんです。泊まった客は、出ていく前に必ず、どこから来てどこへ行くのかを、帳面に書かなければいけない。その帳面が何十冊もたまっていて、商人はそれを一晩かけて読んだそうです」
話しながら、自分がこんなふうに笑っていることに、少し驚いた。
ローレンスは、何も解決しようとしなかった。それはいい本だとも、今度その宿へ行こうとも言わなかった。ただ聞いていた。煮込みの匙を置いたまま。
最後に、一つだけ尋ねた。
「その宿は、今もあるのか」
「分かりません。地図には、載っていませんでした」
「そうか」
それだけだった。それだけで、十分だった。
役に立つ話でも、成果の話でもなかった。それでも、聞いてもらえた。
一刻が、静かに過ぎた。誰も、扉を叩かなかった。
*
食器が下げられると、クラリッサは膝の上で手を重ねた。
「時間を守っていただいたことが、嬉しかったです」
それから、具体的に言った。
「六時に、ここにいてくださったこと。ホルストさんのお返事と、橋の報告を、明日に回してくださったこと。私の本の話を、最後まで聞いてくださったこと」
ローレンスは、少し目を伏せた。
「テオも、扉を叩かなかった。礼は、テオにも言っておく」
クラリッサは、思わず笑った。
それで、何かが決まったわけではなかった。夫もそう言わなかったし、自分もそう思わなかった。一度約束を守ってもらったからといって、三年が消えるわけではない。離婚のことを考えていないわけでもない。それは、胸の奥のいつもの場所に、まだ置いてあった。
ただ、今夜、一つの約束が守られた。それは、謝罪とは別の、小さな信用として、手のひらに残った。
二人で食堂を出たところで、オズワルドが廊下の向こうから歩いてきた。手に、封書を一通持っている。
「奥様宛てでございます」
宛名の字に、見覚えがあった。昼に自分が返事を書いた相手。行き違いになったのだろう。
差出人は、イネスだった。




