↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離婚寸前の辺境伯夫妻は、なぜか毎晩入れ替わる  作者: 南野遥
第2部 奥様のお仕事は、誰のもの?

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/63

第31話「クラリッサの報告書」

 

報告書の最後の行に自分の名前を書くとき、ペンが少しだけ止まった。


零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝食の前に、相談室の卓で、昨日夫の手で書いた報告書を読み直した。字は自分のものだった。指が太くても、書き方は変わらない。


一番下の欄。


冬衣配給 調査担当 クラリッサ・エルヴェイン。


書き終えて、しばらくその文字を見ていた。夫人、とは書かなかった。伯爵の名を添えることもしなかった。三年前、会議に出たいと言ったとき、こういう紙に自分の名前が載る日が来るとは、思っていなかった。


会議室の卓の端、書記の向かいの席に座った。もう誰も、そこに夫人がいることに驚かない。


冬支度の議題がいくつか続いたあと、ローレンスがこちらを見た。クラリッサは立ち上がり、三つの項目を読み上げた。合ったもの。合わなかったもの。届くのが遅れたもの。遅れの理由と、検討中の二つの案。


満点ではない報告だった。三つ目を読むとき、声が少しだけ硬くなった。


読み終えると、民政局の配給担当が帳面から顔を上げた。


「奥様のご報告は、伯爵様のお名前で上げるものではございませんの?」


責める調子ではなかった。いつもそうしてきた、という確認のような声だった。


クラリッサが答えるより先に、ローレンスが言った。


「その報告書は、クラリッサの仕事です」


短く、言い直しもしなかった。


それから、書記の方を向いた。


「議事録には、ほかの名前も残してくれ。受付で聞き取りの順番を作ったのはマルタ。見本の上着で丸をつけたのは、二つの受取所の係。戸口まで上着を運んだのは、市場生まれの若い係。袖を直す時間を記録したのは、洗濯場のリタ。それぞれの名前で」


書記のペンが走った。


クラリッサは、自分の名前が残る嬉しさと、それが自分だけの手柄として書かれなかった安心を、同時に感じた。どちらも、本当だった。一人でやったことではなかった。三年前は、一人でやるしかなかった。


午前のうちに報告書の写しを仕上げ、午後はマルタの報告を受け取るだけにした。気になる行が二つあったが、明後日の朝に聞くと付箋をつけた。それから、イネスへの返事を書いた。帰り荷の案に礼を言い、積み込みの時刻のことをもう少し教えてほしいと頼んだ。


窓の外の光が、少しずつ傾いていった。


  *


五時半の鐘が鳴った少し後、書斎の方で人の声がした。


クラリッサが廊下に出ると、書斎の扉が開いていた。オズワルドが封書を二通持って立ち、ローレンスがそれを受け取るところだった。


「ホルスト様からのお返事と、橋の現場からの報告でございます」


ローレンスは、まず橋の報告の封を切った。目を通しながら、オズワルドに尋ねる。


「怪我人は出ているか」


「いいえ。補強の進み具合の報告と、巡回を戻す日のご判断をいただきたい、とのことでございます」


「今夜決めなければ、困ることはあるか」


「明朝で、差し支えないと存じます」


ローレンスは頷き、封書を畳んだ。国境の事故でも、火事でも、命に関わることでもなかった。


「テオに渡してくれ。中身をまとめておいてもらって、判断は明日の朝、私がする」


それから、もう一通。ホルストの封書は開けずに、差出人の名前だけを確かめた。


「中身を、一行で」


オズワルドが、預かったときに使いから聞いたことを伝えた。条件はつけず、量は先の申し出の半分を、寄付する。


ローレンスは、その封書を書斎の机に置いた。


「返礼と細かいことは、明日の朝、クラリッサとオズワルドで扱ってくれ」


それから、家令の顔を見た。


「明日の朝でいい。今日は六時に約束がある」


廊下の端で、クラリッサはその声を聞いていた。


夫が、自分の目の前で、用件を横に置いた。寄付の返事も、橋の報告も、どちらも大事なものだった。けれど、どちらも今でなくていいと、彼は自分で確かめてから決めた。三年間、こういうことは一度もなかった。


驚きと、小さな安堵が、胸の中で静かに広がった。


六時の鐘が鳴った。


  *


食堂の卓は、記念日の夜より、ずっと簡素だった。


燭台は一本だけ。花は飾っていない。鍋のまま運ばれてきた煮込みと、焼いたパンと、温かい葡萄酒。温め直さなくて済むものを、と昨日言ったとおりだった。


向かいの席に、ローレンスが座っていた。


クラリッサは、自分の席に腰を下ろしながら、一瞬だけ、あの夜の空席を思い出した。銀の燭台と、白い卓布と、冷めていく料理。今日の卓には、料理が冷める前に、二人ともいた。


しばらくは、黙って食べた。それから、クラリッサは口を開いた。


「今日の報告ですが、三つ目のところで、もう少し――」


言いかけて、止まった。


ローレンスは、止めなかった。続けてくれていい、というように、ただこちらを見ていた。


けれど、クラリッサは自分で言葉を切った。今は、仕事の話をする時間ではない気がした。


「仕事の話じゃなくて、好きな本の話をしてもいいですか」


ローレンスは、少し驚いたように眉を上げた。それから、頷いた。


クラリッサは、旅の本のことを話した。三十年前に北の街道を旅した商人の記録。夫から借りた南の街道の地図と、本の宿場の名前を一つずつ照らし合わせたこと。見つかった宿場と、見つからなかった宿場。


「ある宿の主人が、変わった決まりを作っていたんです。泊まった客は、出ていく前に必ず、どこから来てどこへ行くのかを、帳面に書かなければいけない。その帳面が何十冊もたまっていて、商人はそれを一晩かけて読んだそうです」


話しながら、自分がこんなふうに笑っていることに、少し驚いた。


ローレンスは、何も解決しようとしなかった。それはいい本だとも、今度その宿へ行こうとも言わなかった。ただ聞いていた。煮込みの匙を置いたまま。


最後に、一つだけ尋ねた。


「その宿は、今もあるのか」


「分かりません。地図には、載っていませんでした」


「そうか」


それだけだった。それだけで、十分だった。


役に立つ話でも、成果の話でもなかった。それでも、聞いてもらえた。


一刻が、静かに過ぎた。誰も、扉を叩かなかった。


  *


食器が下げられると、クラリッサは膝の上で手を重ねた。


「時間を守っていただいたことが、嬉しかったです」


それから、具体的に言った。


「六時に、ここにいてくださったこと。ホルストさんのお返事と、橋の報告を、明日に回してくださったこと。私の本の話を、最後まで聞いてくださったこと」


ローレンスは、少し目を伏せた。


「テオも、扉を叩かなかった。礼は、テオにも言っておく」


クラリッサは、思わず笑った。


それで、何かが決まったわけではなかった。夫もそう言わなかったし、自分もそう思わなかった。一度約束を守ってもらったからといって、三年が消えるわけではない。離婚のことを考えていないわけでもない。それは、胸の奥のいつもの場所に、まだ置いてあった。


ただ、今夜、一つの約束が守られた。それは、謝罪とは別の、小さな信用として、手のひらに残った。


二人で食堂を出たところで、オズワルドが廊下の向こうから歩いてきた。手に、封書を一通持っている。


「奥様宛てでございます」


宛名の字に、見覚えがあった。昼に自分が返事を書いた相手。行き違いになったのだろう。


差出人は、イネスだった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。