第30話「夕食の時間を、約束する」
何を贈るかではなく、何時なら座れるかを、初めて考えた。
報告書の署名欄の答えは、すぐに出た。
「私の名前で」
夫の身体のクラリッサは、迷わずそう言った。
「クラリッサ・エルヴェイン、と。署名は明日、自分の身体に戻ってから書きます」
ローレンスは頷いた。尋ねるまでもなかったのかもしれない。それでも、尋ねてよかったと思った。三年前の自分なら、何も聞かずに領主の名を書き入れていただろう。
報告書を書斎の机に置き、ローレンスは妻の部屋へ戻った。妻の身体の細い肩に、午後の日差しが当たる。窓の外では、昨日荷馬車が回った市場の通りが、小さく見えていた。
試しの便は、満点ではなかった。けれど、二つの地区の子どもたちの多くに、合う上着が届いた。妻がこの三年、一人で夜中に袖を詰めてきた服だ。それが、今は見本の上着と、受取所の係の丸印で届くようになりかけている。
何か、労いたいと思った。
最初に浮かんだのは、厨房のことだった。料理人に腕をふるわせ、温室の花を飾り、葡萄酒を開ける。それから、何か贈り物を。王都の商人から取り寄せた、新しい装身具でも。
ローレンスは、廊下を厨房の方へ歩きかけた。
そして、足を止めた。
銀の燭台と、白い卓布と、季節外れの花。三回目の記念日の夜、妻はその前に座って、何時に戻るか分からない夫を待っていた。料理は冷め、温め直すかと聞かれ、やがて下げられた。
並べた料理の前で、妻を待たせたのは、自分だった。
ローレンスは、厨房へは行かずに、書斎の扉を叩いた。
クラリッサは、夫の大きな身体で机に向かい、イネスの手紙を読み返していた。顔を上げる。自分の顔が、何かと問うように眉を上げた。
「明日、夕食を一緒にとれないか」
ローレンスは言った。
「何がしたいか、ではなくて」
一度、言葉を探した。
「何時なら、落ち着いて食べられるだろう」
*
クラリッサは、少し驚いたように瞬きをした。それから、しばらく考えた。
「明日は、二人とも自分の身体ですね」
「ああ」
「午前は会議で、報告をします。午後は、マルタから窓口の報告を受けて、イネスさんに返事を書いて」
指を折りながら、明日を並べていく。夫の太い指で。
「六時なら」
クラリッサは言った。
「六時なら、落ち着いて座れると思います」
「では、六時に」
ローレンスは、紙を一枚取った。書き留めておかなければ、明日の忙しさの中で、どこかへ流れてしまいそうな気がした。
「どのくらいの時間がいい」
「一刻くらいで。……料理は、簡単なものでいいです。温め直さなくて済むものを」
その言葉に、ローレンスは胸のどこかを突かれた。温め直さなくて済むもの。妻はたぶん、何気なく言ったのだろう。けれど、自分には何気なく聞こえなかった。
紙に書く。六時から一刻。簡素な食事。
「何かあったときは」
クラリッサが言った。
「必ず、何かは起きます。あなたにも、私にも」
「テオを通そう。緊急のときは、テオが私に知らせる」
「緊急、というのは」
二人で、それを決めた。国境での事故。火事。人の命に関わること。その三つだけ。
「それ以外は」
クラリッサが、少しだけ笑った。
「急ぎでないことは、明日の朝の私たちに任せましょう」
ローレンスは、その言葉も紙に書いた。妻の身体の細い手で、自分の字で。約束は、口で言うだけでは足りない。それを、この半月で何度も知った。
紙を畳み、上着の内側にしまった。
「明日の私の予定を、見直してくる」
*
書斎の隣の小部屋で、ローレンスは明日の予定を並べた。
午前の会議。午後には、補給の定期報告の受け取り。巡回の交代の確認。橋の現場からの報告。北の拠点からの書状が届けば、その返事。
全部、自分でやってきたことだった。
けれど、全部、自分でなければできないことだろうか。
補給の定期報告は、受け取って目を通し、問題がなければ印を押すだけだ。巡回の交代は、テオがすでに組んでいる。確認するのは、組み方に変更がないかどうか。橋の報告は、昨日テオに頼んだもので、結果を待って巡回を戻すかどうか決める。それは、自分が決めなければならない。けれど、明日の夕方でなくてもいい。
ローレンスは、テオを呼んだ。
副官が入ってくると、ローレンスは控室で決めた合言葉を口にした。テオがそれに応える。妻の姿の中に誰がいるのかを、二人で確かめる。
「明日の午後、補給の定期報告と、巡回の交代の確認を、お前に任せたい」
テオは、わずかに目を見開いた。
「承知しました。……判断の要るものが出てきましたら」
「緊急の三つ以外は、翌朝でいい」
ローレンスは、国境の事故、火事、命に関わること、と、さっき妻と決めた三つを繰り返した。
「六時から一刻、私は食堂にいる。その三つのどれかなら、扉を叩いてくれ」
テオは、しばらく黙っていた。何かを言いかけ、口をつぐむ。それから、少しだけ困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「閣下が、夕食のために仕事をお任せになるのは――」
そこで言葉を切った。
「いえ。承知しました」
テオは書き付けに、受け取った仕事と、緊急の三つを書いた。
「六時以降は、扉を叩かないようにします」
ローレンスは、副官の背中を見送った。任せることが、相手を信じていると伝えることにもなるのだと、今になって分かった。テオは、それを嬉しそうに受け取っていた。
*
書斎に戻ると、クラリッサが報告書の写しを前に、考えこんでいた。
夫の大きな身体を少し丸め、ペンを持ったまま、動かない。
「どうした」
「明日の午後のことを、考えていました」
クラリッサは、ペンを置いた。
「マルタの報告を受けるだけにしよう、と思っていたんです。でも、たぶん、私は最後まで聞いてしまう。誰が来て、何を言って、どう答えたか。一組ずつ、気になって。気づいたら、六時を過ぎているかもしれません」
ローレンスは、黙って聞いた。
「窓口に座っていたときも、そうでした。最後の一人の話が終わるまで、席を立てなかった。夕食に呼ばれても、あと少し、と言って」
クラリッサは、自分の手を見下ろした。
「約束を守るのは、あなたが仕事を切り上げることだと思っていました。でも、私も切り上げなければいけないんですね」
「どうする」
「報告書の写しは、明日の午前のうちに仕上げます。午後は、マルタの報告を、受け取るだけにします。聞きたいことがあっても、明後日の朝に回す」
クラリッサは、もう一度ペンを取り、明日の予定の紙に書き足した。
「時間を守るのは、あなただけの宿題ではありませんね」
ローレンスは、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。約束は、自分一人が頑張って守るものではなかった。二人で段取りを組むものだった。
扉が叩かれ、オズワルドが顔を出した。
「旦那様。先ほど、ホルスト様の使いが参りまして。先日のご寄付の件、明日の夕方にお返事をお届けする、とのことでございます」
ローレンスは、上着の内側の紙に、そっと手を当てた。六時から一刻。
明日の夕方に、何かが入る。そんな気がしていたことは、口には出さなかった。




