第28話「助けを呼ぶのは、失敗ではない」
保留、と書かれた紙には、迷った理由が三つ並んでいた。
マルタが卓に置いた控えの頁を、クラリッサは自室の窓辺で読んだ。午前の五組目。国境で亡くなった兵の母親だという。
相談者の名前の下に、マルタの字で、行が三つ。
――扶助の決まりでは「遺族」とある。亡くなった方の妻ではなく、母も入るのか、文言からは分からない。
――母親は、息子夫婦の家とは別に、一人で暮らしている。
――息子に妻がいたかどうか、ご本人もはっきりとはおっしゃらなかった。ほかに受け取る家族がいるかもしれない。
その下に、選べることが二つ。
――民政局に、正式に問い合わせる。
――それまでのあいだ、今ある決まりで燃料券を渡す。
二つ目の横に、小さく、済、と書いてあった。
クラリッサは、紙から顔を上げられなかった。
さっき、報告を聞いたときの気持ちを思い出していた。保留、の二文字を見て、胸が縮んだ。自分がいれば、その場で決められたのではないか。マルタは、なぜ決めなかったのだろう。そう思った。ほんの少し、苛立ちに近いものがあった。
けれど、紙の上には、投げ出したあとなど一つもなかった。迷った理由が、整理されて並んでいる。今夜困らないための手当ては、もう済んでいる。
「お母様は、どんなご様子だった?」
クラリッサが尋ねると、マルタは少し目を伏せた。
「息子さんのことを、ずっと話していらっしゃいました。扶助のことより、そちらの方が長くて。わたしは、急かさずにお聞きしました」
「そう」
「決めてしまうのが怖かったのではないんです」
マルタは、控えの縁を指でなぞった。
「間違えたくなかったのです。もし出せると申し上げて、あとで出せないと分かったら、あの方を二度がっかりさせてしまいますから」
クラリッサは、自分の頬が熱くなるのを感じた。苛立ちが、恥ずかしさに変わっていた。
自分なら、その場で決めていたかもしれない。決まりの文言を、自分の都合のいいように読んで。出せますよ、と言っていたかもしれない。そして、あとで民政局に違うと言われたら、どうしただろう。
「決まりの写しを、持ってくるわね」
答えを出すのではなく、クラリッサは立ち上がった。
*
相談室の棚から、遺族扶助の決まりの写しを出してきた。最初に替わった日に、夫が妻の姿で案内しようとした、あの制度だ。
二人で、卓の上に広げた。
「遺族とは、亡くなった者の妻、子、および、その者に養われていた父母」
クラリッサが読み上げた。マルタが、自分の控えと見比べる。
「養われていた、というのは」
「息子さんが、仕送りをしていたかどうか、ということかしら」
「別に暮らしていても、仕送りがあれば入るのでしょうか」
クラリッサは、もう一度、文言を読んだ。それから、続きの頁を探した。別居の場合のことは、どこにも書いていなかった。
マルタが、こちらを見ていた。奥様なら分かるだろう、と待っている顔だった。
「分からないわ」
クラリッサは言った。
マルタが、少し目を丸くした。
「私にも、ここは決められない。書いていないことを、私たちで読み足してはいけないと思うの」
言ってしまうと、肩が軽くなった。分からない、と言うことを、自分はずっと避けてきた気がした。奥様に聞けば分かる。そう思ってもらうことが、自分の居場所だったから。
「民政局に、問い合わせる文を書きましょう。あなたが書いて。私は、読むだけにする」
マルタはペンを取った。相談者の事情と、決まりのどの文言で迷ったのか。それを、短く、正確に書いていく。クラリッサは、一か所だけ、仕送りの有無を確かめる問いを足すよう勧めた。それ以外は、何も直さなかった。
「返事が来るまで、燃料券の二週目も出せるわね」
「はい。決まりの中で、出せます」
「保留した理由があるなら、それも大切な報告です」
クラリッサが言うと、マルタは、書き終えた文を見下ろしたまま、小さく頷いた。
二人のあいだの空気が、さっきより少しだけ近くなっていた。どちらが上というのではなく、同じ紙を一緒に読んだ者どうしとして。
廊下の向こうの書斎から、低い声が聞こえてきた。困ったときの、夫の声だった。
*
書斎では、ローレンスが机の前で地図を広げていた。向かいに、テオが立っている。
「橋の補強が終わる日に合わせて、巡回を元の道に戻したいのです」
テオが言った。
「ただ、補強の終わる日が、まだはっきりしません。現場の者は、あと三日と言ったり、五日と言ったり」
ローレンスは、地図の赤い線を指でたどった。それから、しばらく黙っていた。
「三日と見て組み直すか、五日と見て待つか、どちらかだな」
「はい。どちらにいたしましょう」
テオは、閣下の判断を待っていた。
ローレンスは、指を地図から離した。
「以前なら、ここで見当をつけて決めていた」
戸口に立ったクラリッサに気づいて、彼はそう言った。テオに向けた言葉なのか、妻に向けた言葉なのか、どちらともつかなかった。
「三日だろうと決めて組み直して、外れたら、また組み直した。そのたびに、現場の者が振り回された」
ローレンスは、テオに向き直った。
「今日は決めない。橋の現場から、もう一日分、報告をもらってくれ。補強がどこまで進んでいて、何が残っているのか。それを見てから決める」
テオは、少し驚いた顔をした。それから、承知しました、と短く答え、書斎を出ていった。
扉が閉まると、ローレンスは椅子の背にもたれた。
「領主が、決められないと言うのは、慣れないな」
クラリッサは、思わず笑ってしまった。
「怠けているとは、思いません」
「そうか」
「私も今、同じことをしてきたところです」
マルタの保留の紙のこと。民政局への問い合わせのこと。分からない、と自分が言ったこと。ローレンスは黙って聞き、それから、少しだけ口の端を上げた。
「分からないまま決めるより、一日待つほうを選んだ」
夫婦で、同じ種類の迷いを持っていた。それがおかしくて、少しだけ心強かった。
*
夕方、相談室に、マルタとオズワルドも呼んだ。
「休むことと、放り出すことの違いを、書いておきたいの」
クラリッサは紙を一枚広げた。今日の午前、自分が窓口を離れた。そのあいだに、一件の保留が出た。それを、誰かの失敗にしたくなかった。マルタのでも、自分のでも。
「保留は、理由と、選べることが書いてあれば、それでいいことにしましょう」
マルタが頷いた。
「相談の順番も、書いておきます。まずマルタ。私の担当の範囲のことなら私に、それ以外はオズワルドに。そこで決められなければ、旦那様に」
ローレンスが、壁際で腕を組んだまま頷いた。
「それから、休みの日のこと。緊急の三つに当たらないことは、翌日に回していい」
オズワルドが、何か付け加えようとして口を開き、それから閉じた。
クラリッサは、書いた紙を見下ろした。三行だった。もう少し書き足したい気持ちがあった。あの場合はこう、この場合はこう、と。けれど、書き足すほど、また誰か一人が全部を覚えていなければならない仕組みになる。
三行で、やめた。
「休んでいる間に起きたことは、休んだ人のせいではありません」
それは、マルタに向けた言葉でもあり、自分に向けた言葉でもあった。
オズワルドが、帳簿を抱え直した。
「試しの配達の結果は、明日の朝には、まとめてお届けできます。受取所の係と、商会連合の両方から、報告が上がってまいりますので」
明日は、また夫の身体で目を覚ます日だった。




