↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離婚寸前の辺境伯夫妻は、なぜか毎晩入れ替わる  作者: 南野遥
第2部 奥様のお仕事は、誰のもの?

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/58

第27話「いない時間を、作ってみる」

 

今日は用がなくても外へ出ていい日だと、自分に言い聞かせるのに、朝の半分を使った。


零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。窓の外は晴れていて、霜が日の光に溶けかけている。相談室の窓口は、午前の二刻に開く。今日は、そこに自分の席はない。


朝食のあと、マルタと相談室の卓を挟んで座った。


「呼ばれる時を、先に決めておきたいの」


マルタが控えの綴りを開く。


「まず、あなたが判断して。迷ったら、オズワルドに。私を呼ぶのは、命に関わること、今夜の火がないこと、病人がいること。そのどれかで、あなたとオズワルドの二人とも決められない時だけ」


「それ以外は」


「明日の朝に回して」


マルタは、三つの条件を控えの一番上に書き写した。それから、少し考えて顔を上げた。


「奥様は、どちらにいらっしゃいますか」


「分からないわ。決めていないの」


言ってから、自分でも少し笑ってしまった。どこにいるか分からない午前など、結婚してから一度もなかった。


クラリッサは、帳面の頁のうち、マルタに開いてよい頁に小さな紙をはさんだ。去年の冬からの相談の記録と、学習会の名簿。それ以外の頁は、はさまなかった。


「必要なら、ここを見て。はさんでいないところは、見なくていい頁よ」


「承知いたしました」


今日は、商会連合の試験の配達もある。昨日、ギルベルトが一度だけと約束してくれた、二地区の戸口配達。それも、オズワルドと受取所の係に任せてあった。


任せた、と自分に確かめる。確かめるたびに、胸のどこかがざわついた。


「呼ばれなかったら、うまくいっているということにします」


クラリッサは立ち上がった。自室へ戻り、外套と、旅の本を手に取った。


  *


屋敷を出て、町の川沿いまで、一人で歩いた。


供を連れずに歩くのは、久しぶりだった。石畳の道を下り、橋のたもとの石の腰掛けに座る。川面に日が光り、向こう岸で洗濯をする女たちの声が、風に乗って聞こえてくる。


旅の本を開いた。北の街道を旅した商人の記録。角のすり切れた、古い革の装丁。数日前の夜、夫の身体で、峠を越えたところまで読んだ。その続きの頁を探す。


余白に、自分の字があった。結婚する前に書き込んだ、細かな字。南の海沿いの宿場の名前。その宿の主人は朝に必ず魚の汁を出す、と、誰かから聞いた話が矢印つきで添えてある。


指で、その宿場の名をなぞった。行ったことのない場所だった。行こうと思っていたことも、いつのまにか忘れていた。


一頁、二頁。文字を追っていくと、少しずつ、川の音が遠くなった。


それから、ふと思った。今ごろ、窓口には何組来ているだろう。ミナがまた来ていないだろうか。あの元大工の男の件は、民政局にちゃんと伝わっただろうか。


頁の上の文字が、また頭に入らなくなった。


一刻ほど座っていたが、とうとう落ち着かなくなって、本を閉じた。屋敷へ戻る。見るだけ。窓口の様子を、遠くから見るだけ。


相談室の廊下の角まで来たとき、扉の向こうからマルタの声が聞こえた。


「今夜、お家に火はありますか」


落ち着いた声だった。相手が何か答え、マルタがまた、一番困っていることは何ですか、と尋ねる。昨日、様式に書き足した二つの問い。その順番どおりに。


クラリッサは、扉の取っ手に伸ばしかけた手を止めた。


自分がいなくても、声は続いていた。それが少し寂しかった。けれど、その寂しさより、引き返す足の方が、わずかに強かった。


「今日は、用がなくても外へ出ていい日です」


小さく呟いて、廊下を戻った。


  *


自室の扉の前に、ローレンスが立っていた。


手に、丸めた大きな紙を持っている。朝のうちに、クラリッサが頼んだものだった。書斎の棚にある、南方の街道の地図を一枚、貸してほしい。旅の本と見比べてみたいから。仕事とは関係のない、自分のための用だった。


「これでいいか」


ローレンスは、地図を差し出した。


クラリッサは受け取って、少しだけ広げた。南の峠から海沿いへ伸びる道。宿場の名前が、小さな丸と一緒に並んでいる。


「はい。ありがとうございます」


ローレンスは、何に使うのかを聞かなかった。


聞かれるかもしれない、とクラリッサは思っていた。地図をどうするのか。南に何か用があるのか。王都へ行く道の地図ではないのか。夫が聞けば、答えるつもりでいた。


けれど、ローレンスは何も聞かなかった。何か手伝えるか、と言いかけたように見えたが、口を閉じた。


「返すのは、いつでもいい」


それだけ言って、彼は書斎の方へ戻っていった。


クラリッサは、自室の卓に地図を広げ、その横に旅の本を開いた。本の中の宿場の名前を、地図の上で一つずつ探していく。見つかるものもあれば、見つからないものもあった。三十年前の記録だから、もうなくなった宿場もあるのだろう。


見つけるたびに、地図の上の小さな丸を指で押さえた。


誰のためでもない時間だった。何かの役に立つわけでもない。ただ、本の中の道が、地図の上の道と重なっていく。それが、思っていたよりずっと楽しかった。


昼の鐘が鳴った。


  *


昼食のあと、マルタが報告に来た。


「午前は、五組いらっしゃいました」


控えの綴りを開く。


「四組は、終わりました。燃料券の二週目が一組。上着の寸法の相談が一組。学習会の日を確かめに来た方が一組。それから、鍋のことで、民政局の窓口をお教えした方が一組」


一組ずつ、マルタの字で、何を聞き、何を渡し、どこへ回したかが書いてある。今夜の火の問いも、一番困っていることの問いも、どの行にもあった。


「残りの一組は」


「保留にいたしました。扶助の対象になるかどうか、わたしには判断がつかなくて」


保留。その二文字を見た瞬間、クラリッサの胸がきゅっと縮んだ。自分がいなかったから、決められなかったのではないか。自分がいれば、その場で答えられたのではないか。


続けて、オズワルドからも一行の報告が届いた。商会連合の荷馬車が、午前のうちに二地区の戸口を回った。詳しい結果は、明日の朝にまとまる。


クラリッサは、二つの報告を並べて見た。


保留が一件。けれど、四件は、自分なしで終わっていた。荷馬車も、自分がいないあいだに走っていた。


先に、そちらを受け止めようと思った。保留のことは、そのあとでいい。


「私がいなくても、窓は開いていたんですね」


言葉にすると、寂しさと安堵が同時にこみ上げてきた。どちらが大きいのか、自分でもよく分からなかった。


マルタは、控えを閉じずに、少しためらってから言った。


「奥様。その保留の件ですが、少しご相談させていただいてもよろしいですか」

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。