第27話「いない時間を、作ってみる」
今日は用がなくても外へ出ていい日だと、自分に言い聞かせるのに、朝の半分を使った。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。窓の外は晴れていて、霜が日の光に溶けかけている。相談室の窓口は、午前の二刻に開く。今日は、そこに自分の席はない。
朝食のあと、マルタと相談室の卓を挟んで座った。
「呼ばれる時を、先に決めておきたいの」
マルタが控えの綴りを開く。
「まず、あなたが判断して。迷ったら、オズワルドに。私を呼ぶのは、命に関わること、今夜の火がないこと、病人がいること。そのどれかで、あなたとオズワルドの二人とも決められない時だけ」
「それ以外は」
「明日の朝に回して」
マルタは、三つの条件を控えの一番上に書き写した。それから、少し考えて顔を上げた。
「奥様は、どちらにいらっしゃいますか」
「分からないわ。決めていないの」
言ってから、自分でも少し笑ってしまった。どこにいるか分からない午前など、結婚してから一度もなかった。
クラリッサは、帳面の頁のうち、マルタに開いてよい頁に小さな紙をはさんだ。去年の冬からの相談の記録と、学習会の名簿。それ以外の頁は、はさまなかった。
「必要なら、ここを見て。はさんでいないところは、見なくていい頁よ」
「承知いたしました」
今日は、商会連合の試験の配達もある。昨日、ギルベルトが一度だけと約束してくれた、二地区の戸口配達。それも、オズワルドと受取所の係に任せてあった。
任せた、と自分に確かめる。確かめるたびに、胸のどこかがざわついた。
「呼ばれなかったら、うまくいっているということにします」
クラリッサは立ち上がった。自室へ戻り、外套と、旅の本を手に取った。
*
屋敷を出て、町の川沿いまで、一人で歩いた。
供を連れずに歩くのは、久しぶりだった。石畳の道を下り、橋のたもとの石の腰掛けに座る。川面に日が光り、向こう岸で洗濯をする女たちの声が、風に乗って聞こえてくる。
旅の本を開いた。北の街道を旅した商人の記録。角のすり切れた、古い革の装丁。数日前の夜、夫の身体で、峠を越えたところまで読んだ。その続きの頁を探す。
余白に、自分の字があった。結婚する前に書き込んだ、細かな字。南の海沿いの宿場の名前。その宿の主人は朝に必ず魚の汁を出す、と、誰かから聞いた話が矢印つきで添えてある。
指で、その宿場の名をなぞった。行ったことのない場所だった。行こうと思っていたことも、いつのまにか忘れていた。
一頁、二頁。文字を追っていくと、少しずつ、川の音が遠くなった。
それから、ふと思った。今ごろ、窓口には何組来ているだろう。ミナがまた来ていないだろうか。あの元大工の男の件は、民政局にちゃんと伝わっただろうか。
頁の上の文字が、また頭に入らなくなった。
一刻ほど座っていたが、とうとう落ち着かなくなって、本を閉じた。屋敷へ戻る。見るだけ。窓口の様子を、遠くから見るだけ。
相談室の廊下の角まで来たとき、扉の向こうからマルタの声が聞こえた。
「今夜、お家に火はありますか」
落ち着いた声だった。相手が何か答え、マルタがまた、一番困っていることは何ですか、と尋ねる。昨日、様式に書き足した二つの問い。その順番どおりに。
クラリッサは、扉の取っ手に伸ばしかけた手を止めた。
自分がいなくても、声は続いていた。それが少し寂しかった。けれど、その寂しさより、引き返す足の方が、わずかに強かった。
「今日は、用がなくても外へ出ていい日です」
小さく呟いて、廊下を戻った。
*
自室の扉の前に、ローレンスが立っていた。
手に、丸めた大きな紙を持っている。朝のうちに、クラリッサが頼んだものだった。書斎の棚にある、南方の街道の地図を一枚、貸してほしい。旅の本と見比べてみたいから。仕事とは関係のない、自分のための用だった。
「これでいいか」
ローレンスは、地図を差し出した。
クラリッサは受け取って、少しだけ広げた。南の峠から海沿いへ伸びる道。宿場の名前が、小さな丸と一緒に並んでいる。
「はい。ありがとうございます」
ローレンスは、何に使うのかを聞かなかった。
聞かれるかもしれない、とクラリッサは思っていた。地図をどうするのか。南に何か用があるのか。王都へ行く道の地図ではないのか。夫が聞けば、答えるつもりでいた。
けれど、ローレンスは何も聞かなかった。何か手伝えるか、と言いかけたように見えたが、口を閉じた。
「返すのは、いつでもいい」
それだけ言って、彼は書斎の方へ戻っていった。
クラリッサは、自室の卓に地図を広げ、その横に旅の本を開いた。本の中の宿場の名前を、地図の上で一つずつ探していく。見つかるものもあれば、見つからないものもあった。三十年前の記録だから、もうなくなった宿場もあるのだろう。
見つけるたびに、地図の上の小さな丸を指で押さえた。
誰のためでもない時間だった。何かの役に立つわけでもない。ただ、本の中の道が、地図の上の道と重なっていく。それが、思っていたよりずっと楽しかった。
昼の鐘が鳴った。
*
昼食のあと、マルタが報告に来た。
「午前は、五組いらっしゃいました」
控えの綴りを開く。
「四組は、終わりました。燃料券の二週目が一組。上着の寸法の相談が一組。学習会の日を確かめに来た方が一組。それから、鍋のことで、民政局の窓口をお教えした方が一組」
一組ずつ、マルタの字で、何を聞き、何を渡し、どこへ回したかが書いてある。今夜の火の問いも、一番困っていることの問いも、どの行にもあった。
「残りの一組は」
「保留にいたしました。扶助の対象になるかどうか、わたしには判断がつかなくて」
保留。その二文字を見た瞬間、クラリッサの胸がきゅっと縮んだ。自分がいなかったから、決められなかったのではないか。自分がいれば、その場で答えられたのではないか。
続けて、オズワルドからも一行の報告が届いた。商会連合の荷馬車が、午前のうちに二地区の戸口を回った。詳しい結果は、明日の朝にまとまる。
クラリッサは、二つの報告を並べて見た。
保留が一件。けれど、四件は、自分なしで終わっていた。荷馬車も、自分がいないあいだに走っていた。
先に、そちらを受け止めようと思った。保留のことは、そのあとでいい。
「私がいなくても、窓は開いていたんですね」
言葉にすると、寂しさと安堵が同時にこみ上げてきた。どちらが大きいのか、自分でもよく分からなかった。
マルタは、控えを閉じずに、少しためらってから言った。
「奥様。その保留の件ですが、少しご相談させていただいてもよろしいですか」




