第26話「欲しいものは、全部違う」
服の話をしに来たはずの男は、袖ではなく、自分の手を見せた。
その男が屋敷に来たのは、昼の少し後だった。午前、市場の受取所で係に話をして、係が様式の余白に書いたのが、彼のことだった。春までの仕事の口を探している方がいました。妻がそれを読み、午後に屋敷で話を聞くと、受取所に伝えてもらっていた。
ローレンスは、妻の身体で、相談室の椅子に座っていた。
マルタが先に用件を聞き、それから男を通した。話を聞く席に座るのは、今日は自分の役だった。妻は夫の身体で、書斎の机に向かっている。交換の日の妻は、外の人に担当として会わない。それが、二人で決めたことだった。
男は、四十に届くかどうかに見えた。日に焼けた顔で、膝の上で節の太い両手を組んでいる。
「大工をしていました」
男は言った。
「秋の終わりに、仕事がなくなりまして。冬の前に、道具を質に入れたんです。鑿と、鋸と、鉋と。それで今年の冬は越せると思ったんですが」
男は、手のひらを上に向けて、ローレンスの前に差し出した。古い傷と、硬いたこ。けれど、今は何も握っていない手だった。
「春になって仕事の口があっても、道具がなけりゃ、雇ってもらえません」
「上着は」
「一枚、配給でいただきました。大人の寸法で、ありがたく着ています」
男は、着ている上着の袖を引いた。それから、少しだけ笑った。
「服をもらっても、春まで食わせられません」
ローレンスは、言葉に詰まった。
妻の机の上には、窓の決まりを書いた紙が置いてある。燃料券。上着。修繕。どれも、配るものの話だった。質に入れた道具を取り戻す金を、どこから出せばいいのか。その頼みを入れる場所が、紙のどこにもなかった。
配れば済む。今朝まで、どこかでそう思っていた。合う上着を配り、燃料を配れば、冬は越せると。
目の前の男の手は、その考えの外にあった。
*
「今日、ここで、道具のお代を出すことはできません」
ローレンスは、正直に言った。
妻の声で言うと、細く頼りなく聞こえた。それでも、言わなければならないことだった。ここで何かを約束すれば、それは妻の名で交わした約束になる。そして、予算のどこにも、一人ずつの道具を取り戻す金はなかった。
男の顔に、失望が浮かんだ。分かっていた、というような顔でもあった。
「ですが、お話は、正しく書いておきます」
ローレンスは、マルタに目で合図した。マルタが控えを開く。
「今夜、お家に火と食べるものはありますか」
マルタが最初に尋ねた。男は、それはある、と答えた。燃料券の一週目と、妻の内職で、春まではどうにか。
「では、一番急ぎではない、と」
マルタが緊急度の欄に印をつけた。
ローレンスは、自分にできることを考えた。新しく金を出す仕組みを、今ここで作ることはできない。けれど、すでにあるものなら、確かめられる。
「民政局に、仕事を紹介する窓口があるはずです。それと、職人の組合で、道具を貸しているところがないか」
言いながら、自分がそのどちらも、詳しく知らないことに気づいた。民政局の仕事の紹介は、自分が署名した決まりの一つだった。それがどこにあって、誰が担当しているのか、思い出せなかった。
「確かめて、お知らせします。それまで、今日の話はこの紙に残しておきます」
男は、しばらく黙っていた。それから、節の太い手で膝を叩き、立ち上がった。
「話を聞いてもらえただけでも、ここまで来た甲斐がありました」
不満がないわけではない声だった。それでも、男は頭を下げて帰っていった。
ローレンスは、男の座っていた椅子を見た。
何もできなかった。そう思った。けれど、マルタの控えには、男の名前と、質に入れた道具の種類と、今夜の火があることと、民政局と組合に確かめることが、きちんと書いてあった。
「今日できることは、あなたの話を正しく書いて、渡す先を探すことだけです」
男に向けて言いそびれた言葉を、ローレンスは口の中で繰り返した。
*
夕食のあと、書斎に三人が集まった。夫の身体のクラリッサと、マルタと、ローレンス。
卓の上に、今日の控えと、午前に受取所から届いた様式を並べた。鍋が欲しいと言った人。仕事の口を探している人。燃料券の二週目が欲しい人。上着の寸法が合わない人。
「同じ窓に、全部が来ています」
マルタが言った。
「どれも、奥様に、とおっしゃって」
クラリッサが、夫の大きな手で控えを揃えた。
「分けましょう。三つに」
紙に線を引く。
「一つ目は、配給。服と、燃料。これは今までどおり、ここで受けます。二つ目は、仕事の紹介。民政局の窓口や、職人の組合へつなぐ。ここで仕事を探すのではなく、どこへ行けばいいかを伝える。三つ目は、すでにある扶助への案内。遺族の扶助や、病人への手当て。申請の仕方を教えて、書記に確かめてもらう」
ローレンスは、二つ目の欄を見た。
「民政局の仕事の紹介は、どこにある」
マルタが答えた。役所の裏手の、小さな部屋だという。週に三日、昼だけ開いている。
ローレンスは、自分が署名した紙のことを思った。紹介の窓口を作る、と書いた紙。その窓口が週に三日しか開かず、相談に来た男がその存在を知らないことは、紙のどこにも書いていなかった。署名した自分も、知らなかった。
「受付で、二番目に何を聞けばいいでしょう」
マルタが言った。
「今夜の火は、の次に」
クラリッサが、少し考えてから言った。
「服を渡す前に、何に困っているか聞きましょう。それで、どの欄に行くかが分かります」
マルタが、様式の一番上の一問の下に、もう一行書き加えた。何に、一番困っていますか。
ローレンスは、その二行を見つめた。領主として署名してきた制度は、どれも一つずつは正しかった。けれど、この窓口で、それらは一本の糸のようにはつながっていなかった。つないでいたのは、妻だった。
*
マルタが下がると、ローレンスはクラリッサに尋ねた。
「帳面を、見てもいいか。去年の、ある一日の頁だけ」
クラリッサは少し考え、冬の初めの一日の頁を開いて、許した。
ローレンスは、細い指で行をたどった。
その日、妻の部屋には七組が来ていた。行ごとに、名前と用件と、渡したもの。余白に、小さな書き込み。そこに書かれていない判断が、行と行のあいだにあった。誰を先に通したか。上着ではなく燃料券を渡したのはなぜか。この人には、次は夕方に来てくださいと言ったのはなぜか。
数えてみると、その一日だけで、二十を超えていた。
一つずつは、小さな判断だった。けれど、それを三年、毎日。誰にも報告せず、誰にも代わってもらわずに。
君は、すごい。
そう言えば、たぶん今夜は終わる。妻も、少しは嬉しいかもしれない。けれど、それを言ったところで、明日もこの二十の判断は、妻一人の頭の中にしまわれたままになる。
ローレンスは、帳面を閉じた。
「君の腕に頼らなくても回るやり方は、あるだろうか」
クラリッサが、夫の顔で、少し驚いたように瞬きをした。
「……分かりません」
それから、扉の近くに控えていたマルタが、遠慮がちに口を開いた。いつのまにか、戻ってきていたらしい。
「試してみては、いかがでしょう。明日の受付を、一度、奥様なしで」
クラリッサは、すぐには答えなかった。夫の大きな手を、膝の上で握ったり開いたりした。それから、ゆっくりと頷いた。
「明日の午前は、窓口に出ないことにします」




