第25話「名簿の余白」
欄が三つあっても、書けない人には一つもないのと同じだった。
昨夜十時、控室で、次の四日間も零時を迎えることにした。毎晩確かめるという約束は変わらない。零時を過ぎて、クラリッサはまた夫の身体で目を覚ました。
書斎の卓に、紙の束が届いていた。
数日前の会議のあと、民政局の配給担当が、自分の判断で二つの受取所で試していたのだという。倉庫の近くと、市場の受取所。クラリッサが倉庫で作った、三つの欄の様式。それが、使われたまま戻ってきた。
一枚ずつめくる。夫の大きな指で、薄い紙を傷めないように。
年の頃の欄は、ほとんど埋まっていた。大人、子ども、七つくらい、十くらい。受取方法の欄も、おおむね書いてある。来た、隣の人、来られない。
寸法の目安の欄だけが、白かった。
小・中・大のどれかに丸をつけるだけのはずだった。それが、どの紙でも空いている。たまに書いてあっても、大、とだけ。すべての子どもが大のはずはない。
束の最後の紙の余白に、係の字で小さく書き込みがあった。
――測る道具も、測る時間もありません。子どもを並ばせておくと、後ろの人が待ちます。
クラリッサは、その一行を何度か読んだ。
受取所の係の顔を思い浮かべた。昼の二刻のあいだに、何十組もの人を通す。名前を確かめ、配給証を見て、品を渡し、印を押す。その合間に、子どもの肩幅を測れと言われても、できるはずがなかった。
「書けない欄を増やしても、役には立ちません」
夫の低い声で、呟いた。
自分の案が、甘かった。紙の上ではうまくいくと思っていた。倉庫の近くの四軒では、自分とマルタが一人ずつ時間をかけて確かめた。それを、受取所の係に同じようにやれというのは、無理な話だった。
少し、落ちこんだ。
けれど、空欄のまま戻ってきたことにも意味があった。少なくとも、どこが無理なのかは分かった。
クラリッサは、余白の一行を指で押さえたまま、考え始めた。測らずに、寸法を知る方法。
*
マルタとオズワルドを呼び、扉を閉めた。
「寸法を、書かせないことにしたいの」
マルタが首を傾げた。
「それでは、倉庫がまた子どもの服を出せなくなりませんか」
「ええ。だから、書くのではなく、着てみてもらう」
クラリッサは、倉庫の写しを引き寄せた。あの日、倉庫で開けた二箱。小と中と大の山。
「受取所に、見本の上着を三枚、掛けておくの。小と中と大を一枚ずつ。子どもが来たら、合いそうな一枚を羽織ってもらう。合ったら、その印に丸をつけるだけ」
オズワルドが、しばらく考えてから頷いた。
「測るより、早うございますね」
「正確ではないけれど、大人用しかないよりは、ずっといい」
それから、もう一つ決めなければならないことがあった。あの日、倉庫で空けたままにした、記入する者の欄。
「この二つの受取所だけ、今いる受付の係に書いてもらいます。勤務の時間の中で。その分、余計にかかった時間は、必ず書いておいてもらう」
「新しく人を置くのではなく」
「まだ、置けません。どれだけ手間がかかるのか、分からないから。それを知るために、まず書いてもらうの」
扉が叩かれ、灰色の普段着のローレンスが入ってきた。話を聞くと、彼はオズワルドに今月の残りを尋ねた。家令が答えると、少し考えてから言った。
「この二つの受取所の分だけ、係の手間の分は出す。ほかに広げるのは、その数字を見てからだ」
決めたのは、夫本人だった。クラリッサは頷いた。
「測るのではなく、着てみてもらいましょう」
自分の理想どおりではなかった。寸法を正確に書いて、倉庫で一枚ずつ選ぶ。それが一番いいと思っていた。けれど、現場の手が回らなければ、どれだけいい案も空欄のまま戻ってくる。
手が回る形を選ぶ方が、ずっと大事だった。
ローレンスとマルタは、市場の外れの通りへ出かけていった。
*
二人が戻ってきたのは、昼の少し前だった。
ローレンスは、妻の身体の細い肩に外套をかけたまま、書斎の椅子に腰を下ろした。マルタが、控えの綴りを開いて隣に立つ。
「この前訪ねた市場の外れの家を、全部回ってきた」
ローレンスが言った。
「配給証をなくした家には、民政局の決まりどおり、再発行の申請の紙を渡した。マルタが書き方を教えた。私は、何も約束していない」
「祖母の家は」
「孫に合う上着を、倉庫の十八枚から一枚、若い係が戸口まで届けた。おばあさんは、玄関の前で何度も頭を下げていた」
クラリッサは、腰の曲がった祖母の顔を思い浮かべた。角の折れた配給証を、自分の手に一度載せて、また胸に戻した人。
「三軒目は」
「昼は荷置き場だ。今日は会えない。本来の分は、夕方、仕事が終わるころに、隣の家へ預けて渡すことにした。隣の人が引き受けてくれた」
マルタが控えを指した。受取方法の欄に、隣家経由、夕刻、と書いてある。
それから、ローレンスは少し言葉を探した。
「あの通りだけで、ほかにも二軒あった。受取所に来られない家が」
「来られない、というのは」
「足が悪いのでも、働いているのでもない。受取所まで、荷を持って帰る手段がないんだ。年寄りの二人暮らしで、上着と燃料を一度に抱えては歩けない。手押し車も、借りる当てもない」
ローレンスは、自分の手を見下ろした。妻の身体の、細い手だった。
「来られないのではなく、来る方法がない家がある」
クラリッサは、夫の顔を見た。自分の顔で、夫が真剣に何かを考えている。約束をせず、聞くだけで帰ってきた。そして、聞いたことを、こうして正確に持ち帰った。
最初に替わった日の午後、この人は相談室で、扶助の申請を勧めればいいと思っていた。今は、通りの家の荷車の有無まで見てきている。
「ありがとうございます」
クラリッサは言った。ローレンスは、何も言わずに頷いた。
*
「では、ここから、どこまで広げるか」
オズワルドが言った。
クラリッサは、紙を一枚取った。町の受取所は八つ。近くの村を入れれば、さらに多い。今朝の様式がうまくいけば、全部の受取所で一度に始めたくなる。
けれど、今朝、空欄の束を見たばかりだった。
「試すのは、二つだけにします。倉庫の近くと、市場の受取所。昨日、ホルストさんの布が来なかった場合の案で決めた二地区と、同じです」
「見本の上着は」
「倉庫の十八枚から、三枚ずつ。残りと、直した大人用を、この二地区に集めます」
それから、様式の一番下に、線を一本引いた。
――合わなかった。届かなかった。
「この欄を、最初から入れておきます。見本で丸をつけたのに合わなかったら、ここに書く。届けるはずが届かなかったら、ここに書く」
マルタが、その欄をじっと見た。
「間違えたことを、書いていいのですね」
「ええ。書いてほしいの」
クラリッサは、紙を押さえた。
「間違えた時に書く場所を、先に作っておきます。そうしないと、間違いは、誰にも見えないまま消えてしまうから」
ハンスの代筆が通ったのも、誰も、来られない家の受け取りを確かめる欄を持っていなかったからだった。
昼前、商会連合から短い書付が届いた。ギルベルトの字だった。費用の上限と、中止の条件をつけたうえで、明日、二地区の戸口配達を一度だけ試すことに同意する、とあった。クラリッサは今朝、数え直した届け先の数と荷の量を、使いに持たせてあった。その返事だった。
書付を卓に置いたとき、マルタが受付から戻ってきた。手に、新しい様式を一枚持っている。
「奥様。受取所の係から、届いたのですが」
様式の、受取方法の欄の隣に、係の字で書き込みがあった。
――服より、鍋が欲しいと言われました。どこへ回せばよろしいでしょう。
その下にも、もう一行。
――春までの仕事の口を、探している方がいました。
同じ窓に、服ではない頼みごとが、届き始めていた。




