第24話「道を持っている人」
道は誰のものでもないと思っていた。荷馬車を持つ人の帳簿を見るまでは。
午後、会議室の卓の向こうに、商会連合の代表ギルベルト・サーンが座っていた。四十代の終わりくらいだろうか。灰色の上着に、よく手入れされた革の帳簿を膝に載せている。来たときから、その帳簿を一度も手放さなかった。
面会を申しこんだのは、クラリッサの名でだった。冬衣配給の調査担当として。ギルベルトはそれを確かめるように書付の写しに目を通し、それから、まっすぐクラリッサを見た。
「ご用件を伺います、エルヴェイン様」
隣の席には、ローレンスが座っている。けれどギルベルトは、領主の顔色をうかがうより先に、用件の主に向き直った。商人らしい、と思った。誰が話を持ってきたのかを、取り違えない人なのだ。
クラリッサは、名簿の写しを広げた。
「受取所まで来られない家があります。足の悪い方、日中に働いている方、子どもを置いていけない方。そういう家の戸口まで、届ける便を出していただけないかと思っています。それから、受取所から遠い村にも、追加の便を」
ギルベルトは、名簿の欄を一つずつ目で追った。受取方法。来られない。日中不可。それから、ゆっくりと頷いた。
「お話は、よく分かります」
そして、膝の上の帳簿を開いた。
「ただ、便を変えるには、お金がかかります」
彼は、今の便の組み方を説明した。荷馬車は朝に倉庫を出て、決まった順に受取所を回る。どの受取所でも、荷を下ろす時刻が決まっている。そこに合わせて、荷卸しの人手と、倉庫の鍵を開ける者が待っている。
「受取所を一つ増やすだけで、荷馬車の順路が変わります。順路が変われば、ほかの受取所に着く時刻もずれる。待っている人手も、組み直さなければなりません」
戸口を一軒ずつ回れば、なおさらだった。
「道は一本でも、そこを走る馬と人には、毎日お金がかかります」
クラリッサは、頼めば応じてもらえると、どこかで思っていた。困っている家があると分かれば、手を貸してくれるだろうと。けれど、ギルベルトの口調には、断る気配も、意地悪をする気配もなかった。ただ、数字の話をしていた。
ギルベルトは、帳簿から一枚の紙を抜き出し、卓に置いた。
*
紙には、遠い村への一往復にかかる費用が書いてあった。
馬の飼い葉。御者の手当て。車輪と荷台の手入れ。それから、雪の季節の保険料。
「保険料、というのは」
「道で荷を失ったり、馬が怪我をしたりしたときのためのものです。冬の山道は、それが高くつきます」
ギルベルトは、紙の下の方を指で示した。
「行きの荷は、配給の品で埋まります。ですが、帰りは空です」
「空」
「村から町へ運ぶものがなければ、荷台は空のまま戻ってきます。空の荷馬車でも、馬は同じだけ食べ、御者は同じだけ働き、保険料も同じだけかかります。その分は、誰も払ってくれません」
クラリッサは、紙を見下ろした。
行きのことしか、考えていなかった。届けたい家と、届けたい品のことだけ。荷馬車がそのあと、どうやって町へ戻るのかは、一度も考えたことがなかった。
夫の身体で書斎にいた日、テオに軍の荷馬車の帰りの空きを尋ねたことを思い出した。あのとき、空いているなら載せられるのではないかと、一瞬考えた。そして、責任の所在が決まっていないと教えられた。今度は、空いていることそのものに、値段があると教えられている。
「追加の便には、帰り道の費用も要るのです」
ギルベルトの声は、穏やかだった。
クラリッサは、この人を、利益のためだけに渋っている商人だと思いかけていた。けれど、紙の上の数字は、どれも本当にかかるものだった。それを払わずに便を増やせば、誰かが損をする。損をした人は、次の冬に同じ道を走らない。
自分が見ていなかったものを、見せられている。そう思った。
「その費用を」
隣で、ローレンスが口を開いた。
*
「必要なら、領主として、追加の便を命じる」
低く、よく通る声だった。会議室の空気が、少し張りつめた。
クラリッサは、思わず夫の横顔を見た。決めてしまう声だった。あの日の昼、市場の訪問を取りやめると書いた紙と同じ。
ギルベルトは、驚いた様子を見せなかった。帳簿を閉じ、膝の上で両手を組んだ。
「お命じになれば、出します」
あっさりとした答えだった。
「契約で、領主様のご命令には従うことになっておりますから。ただ」
ギルベルトは、少しだけ言葉を選んだ。
「その便で出た損は、来季の契約を結び直すときに、取り返すしかございません。運び賃が上がります。上げられなければ、御者に払う手当てを減らすことになります。手当てが減れば、腕のいい御者から、ほかの土地へ移っていきます」
彼は、窓の外を見た。
「そうなれば、次の冬は、便そのものが減ります。今ある受取所への便すら、守れなくなるかもしれません」
ローレンスは、何も言わなかった。
会議室が静かになった。クラリッサは、夫の手が卓の上で、ゆっくりと握られるのを見た。
やがて、ローレンスは息を吐いた。それから、クラリッサの方を見た。何かを確かめるような目だった。
「……今の言葉は、取り消す」
ギルベルトが、わずかに眉を上げた。
「一度走らせても、来年走らなくなるなら、意味がない」
ローレンスは、静かに言った。
クラリッサは、夫が他人の前で自分の言葉を引っこめるのを、初めて見た。家の中でなら、何度か見た。けれど、商会の代表の前で、領主が命令を取り消す。それが、どれほど簡単なことではないか、クラリッサにも分かった。
ギルベルトは、組んでいた手をほどいた。その顔に、初めて、商談の相手を見るような色が浮かんだ。
「では、何でしたら試せるか、伺いましょう」
*
三人は、卓の上に紙を広げ直した。
「まず、私が数え直します」
クラリッサは名簿の写しを指で押さえた。
「届けたい家が、本当に何軒あるのか。荷の量が、どれくらいになるのか。名簿の欄から、もう一度。今のままでは、追加の便がどれだけ要るのかも、言えませんから」
「それは助かります」
ギルベルトは頷いた。
「数が分かれば、費用もはっきりします。そのうえで、一度だけでしたら、試しに走らせることはできます。かかる費用の上限と、どうなったらやめるかを、先に決めていただけるなら」
「上限と、やめる条件」
ローレンスが繰り返した。
「はい。試しのつもりが、いつのまにか毎日の便になってしまうのが、一番困りますので」
それは、クラリッサにもよく分かる話だった。善意で一度始めたことが、終わりを決めないまま三年続く。自分の相談室が、そうだった。
「詳しいことは、数日のうちに書付でお送りします」
ギルベルトは帳簿を閉じた。
「それと、エルヴェイン様。帰りの荷のことですが」
立ち上がりかけて、彼は付け加えた。
「村から町へ運びたいものが見つかれば、話はずいぶん変わります。空の荷台に何かを積めれば、その運び賃で、行きの費用の一部がまかなえますから」
「何を積めばいいのでしょう」
「さて。それは、村のことをよく知っている商人に聞いた方がいい」
ギルベルトが帰ったあと、クラリッサは、しばらく会議室の窓辺に立っていた。
村のことをよく知っている商人。
一人だけ、心当たりがあった。去年、翻訳の仕事を持ってきてくれた人。夫に断られて、それきりになってしまった人。北の村々と王都のあいだで、品物を動かしている交易商。
「帰りの荷を、探してみます」
クラリッサは、振り返って夫に言った。ローレンスは、黙って頷いた。
その夜、クラリッサは自室の文机で、イネスへの手紙を書いた。宛名を書き終えたとき、自分の名前で誰かに仕事の相談をするのは、ずいぶん久しぶりだと気づいた。




