第23話「寄付を断る日」
布の束は見事だった。その横に添えられた紙の一行だけが、重かった。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝のうちに、ローレンスはハンスの件を、自分の身体で民政局の正式な手続きへ回した。処分の中身は、その手続きの中で決まる。クラリッサには、それで十分だった。
相談室の卓に、ホルストが持ってきた毛織りの見本が広げられていた。厚手で、目が詰まっている。指で押すと、ふっくらと戻ってくる。子どもの上着に仕立てれば、北の冬にも負けないだろう。
「先日お尋ねの寸法の件ですが」
ホルストは、前の面談のときと同じように丁寧に頭を下げた。
「子ども用に仕立てられるだけの量を、お出しできます。工房の職人に、型紙も用意させましょう」
クラリッサは、思わず見本から目を上げた。前の面談で夫が保留にした返事が、こうして返ってきた。倉庫の十八枚では足りない。南への注文は、まだ何日も先にならないと届かない。この布があれば、どれだけの子どもに合う上着が渡せるか。
ホルストは、一枚の紙を見本の横に置いた。
「ただ、一つだけお願いがございまして」
紙には、町の東の通りの名が書いてあった。ホルストの工房の職人たちが、多く住んでいる通りだ。
「この通りの家族を、先に配っていただけないかと。うちの者たちは、よく働いてくれます。冬を越させてやりたいのです」
悪気のない声だった。職人を大事にしている主人の顔だった。
そのとき、廊下を通りかかったローレンスが、戸口で足を止めた。ホルストはすぐに立ち上がった。
「伯爵様。ちょうどよいところに。羊毛の取引のことで、一度お時間を――」
「羊毛のことは、日を改めて、正式に伺います」
ローレンスは短く答えた。それから、相談室の中を手で示した。
「配給の話なら、私ではなく彼女に」
そう言って、彼は書斎の方へ去っていった。
ホルストは、しばらく戸口を見ていた。それから、ゆっくりとクラリッサの方へ向き直った。三度の面談で、初めて、真正面から。
クラリッサは、あの夜、夫から聞いた話を思い出していた。この人は妻の説明を聞き流して、伯爵の考えを求めた。その同じ構図が、今、夫自身の言葉でひっくり返った。小さな驚きが、胸の中で温かくなった。
けれど、卓の上の紙は、まだそこにあった。
*
「ホルストさん。配る順番について、お話しさせてください」
クラリッサは、名簿の写しを卓に広げた。倉庫で作った、三つの欄のある紙だ。年の頃、寸法の目安、受け取りの方法。
「今、配る順番は、必要で決めています。子どもがいて、合う服がない家。受け取りに来られない家。今夜の火に困っている家。それを、この欄で見ています」
それから、受取所の近くの四軒の結果を見せた。六人の子どものうち、五人の上着がその場で合ったこと。
「職人さんたちのご家族も、この名簿で必要があれば、当然入ります。でも、どこか一つの通りを、先にすることはできません」
ホルストの眉が、わずかに寄った。
「うちの布で作る上着ですよ」
「はい。だからこそ、ありがたいと思っています」
クラリッサは、声を落ち着けた。
「もし東の通りを先にしたら、ほかの通りで、今夜の火もない家の子が、後回しになります。それは、ホルストさんの布を、必要な子から遠ざけることになると思うんです」
ホルストは黙っていた。
「代わりに、と言っては何ですが」
クラリッサは、紙の余白に書いた。
「受取所に、この布がホルストさんの工房からの寄付だと、掲示させていただけませんか。どの上着が、どなたのお心で作られたのか、受け取る人に分かるように」
長い沈黙だった。ホルストは見本の布を指でつまみ、それからそっと置いた。
「寄付をいただいても、必要な順番は変えられません」
クラリッサがそう言うと、ホルストは小さく息を吐いた。
「……数日、考えさせてください」
それだけ言って、彼は布を残したまま帰っていった。返事がどうなるのか、クラリッサには分からなかった。
*
扉が閉まると、壁際に控えていたオズワルドが、遠慮がちに口を開いた。
「奥様。少し、お強すぎたのではございませんか」
家令の顔には、心配の色が浮かんでいた。
「ホルスト様は、秋から三度もご寄付くださっています。ここで機嫌を損ねられて、次がなくなりましたら」
それは、クラリッサも考えていたことだった。胸の奥で、焦りがまだくすぶっている。あの布があれば。今すぐにでも、何十枚もの上着が作れたのに。
けれど、焦りで順番を曲げれば、また誰かの名前が紙の上で消える。昨日、受領証の束で見たように。
クラリッサは、紙を一枚取った。
「足りない数を、書き出してみます」
左に、必要な数。町の受取所で、子どもがいて合う上着のない家。分かっている分だけでも、指を折ると両手では足りない。
右に、今ある数。倉庫の十八枚。直せば着られる大人用。南に頼んだ半分の注文は、まだ何日も先にならないと届かない。
右と左のあいだに、大きな隙間ができた。
「ホルストさんの布が来なかった場合は、こうします」
クラリッサは、隙間の下に線を引いた。
「試す地区を、二つに絞ります。倉庫の十八枚と、直した大人用を、そこに集める。ほかの地区は、南の分が届くのを待つ。その間は、燃料券と、修繕でつなぎます」
「規模を、小さくなさるのですか」
「はい。足りない分は、順番を曲げて埋めるのではなく、小さくして守ります」
オズワルドは、紙を長いあいだ見つめていた。それから、苦笑に近いものを浮かべた。
「数で見せていただくと、反論のしようがございませんね」
書斎から戻ってきたローレンスが、戸口で二人の紙を覗きこんだ。
*
ローレンスは案を最後まで読み、少し考えてから言った。
「足りない分は、私の家計から――」
言いかけて、止まった。
クラリッサは、夫の顔を見た。何かを思い出しているような目だった。
「いや」
ローレンスは首を振った。
「それでは、また誰かの財布が、予算の代わりになる」
四日前の夕方、書斎で、オズワルドが頭を下げた。奥様のお財布を、領地の予算と思っていました。その言葉を、夫も覚えていたのだ。
「私の財布で埋めたら、君の財布と同じことになる」
ローレンスは、案の紙を卓に戻した。
「公の金で出すべき分と、寄付に頼る分を、分けて考えよう。民政局と、話し合う場を作る。どこまでが領地の仕事で、どこからが寄付の善意に任せていいのか」
クラリッサは、小さく頷いた。夫が、自分の気づきを、言葉だけでなく行動に移している。それを見るのは、悪くなかった。
「もう一つ、あります」
クラリッサは、昨日の夕方に夫から聞いた民政局の追伸のことを口にした。
「数が足りても、届かない家があります。受取所まで半日かかる村。受け取りに来られない家。そこへ届ける手段がなければ、布がいくらあっても同じです」
「配給の荷は、商会連合の便で運んでいるな」
「はい。受取所も、便の時刻も、商会連合との契約で決まっています」
ローレンスは、しばらく黙っていた。
「契約を変えるなら、向こうと話すしかない」
クラリッサは、窓の外を見た。町の通りを、荷馬車が一台、ゆっくりと過ぎていく。あの車輪の行き先を、自分はまだ何も知らなかった。
配給を続けるには、布だけでは足りない。それを運ぶ道の、約束も変えなければならなかった。




