第20話「任せる側の練習」
口を挟まないと決めて座ると、手のやり場がなかった。
午後、玄関に一人の相談者が来ていると、門番から知らせがあった。受付の時間は、午前の二刻と決めたばかりだ。時間の外に来た人を、通すかどうか。通すなら、誰が話を聞くか。
クラリッサは、その一件を、まるごとマルタに任せることにした。
相談室で、二人で決めたのは一つだけだった。
「緊急かどうかの判断から、あなたに任せるわ。危ないと思ったら呼んで。それ以外は、最後まであなたが聞いて」
「危ない、というのは」
「あなたが、そう思ったら」
マルタは少し驚いた顔をして、それから頷いた。午前に紙に書いた三つの条件を、控えの一番上でもう一度確かめる。今夜の火。食べるもの。病人。
玄関から通されてきたのは、ミナ・ハルトだった。ノエルは連れていない。クラリッサは相談室の隣の小部屋へ下がり、扉を半分だけ閉めた。
卓の上に帳簿を開いた。倉庫の写しの続きを読むつもりだった。けれど、文字が頭に入ってこない。壁の向こうから、マルタの落ち着いた声と、ミナのためらいがちな声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
ミナが何か言いよどむたびに、クラリッサは椅子から腰を浮かせかけた。ミナのことなら、自分がよく知っている。扶助の申請のこと。ノエルの上着のこと。行って一言添えれば、すぐに済む。
腰を浮かせて、また座った。それを三度繰り返した。
自分がいなくても、話は進んでいく。それが、こんなに落ち着かないものだとは思わなかった。
やがて、扉の向こうで椅子を引く音がした。ミナが礼を言う声。廊下を遠ざかっていく足音。
マルタが、控えの綴りを手に小部屋へ入ってきた。
*
「ハルトさんは、何の相談だったの」
クラリッサは、自分でも分かるほど早口になっていた。
「ノエルさんの上着のことかしら。襟は合っていたはずだけれど、もしかして袖が――」
「いいえ」
マルタは控えを卓に置いた。
「最初に、今夜どこで、何で暖をとられますかと伺いました。時間の外でしたので、急ぎかどうかを先に確かめようと思いまして」
控えの一行目に、マルタの字でそう書いてあった。今夜の暖。その横に、緊急、と小さな丸。
「燃料券の一週目を、もう使い切っていらしたのです。扶助の支給は、まだ先で。前に、足りなければもう一度来てくださいと言われていたのに、何度も頂くのは申し訳ないと、遠慮して言い出せずにいらしたそうです。今夜の薪が、もう無いと」
クラリッサは、言葉を失った。
燃料券を渡したのは、最初に替わった日だった。一週間分。指を折れば、とうに尽きている。午前の受付に来なかったのも、言い出しにくくて、迷っているうちに昼を過ぎたのだろう。
それなのに、自分はミナの顔を見たら、まずノエルの上着のことを聞いていただろう。上着のことなら、話が弾む。ミナもそれなら気楽に答える。そして、薪のことは、ミナが言い出すまで後回しになっていたかもしれない。時間の外だから明日に、と言ってしまったかもしれない。
「決まりのとおり、二週目をお渡ししました」
マルタは、青い綴りの控えを示した。
「服のことは、ノエルさんのお顔を見れば分かると思いました。分からなかったのは、お家の火のほうでした」
*
クラリッサは、マルタの控えをしばらく見ていた。
自分なら、違う順番で聞いた。帳面の続きから入った。それが、この三年の自分のやり方だった。知っている人の、知っていることから話を始める。相手が話しやすいように。
けれど、そのやり方では、ミナは言いにくいことを言わずに帰ったかもしれない。
「マルタ」
クラリッサは顔を上げた。
「あなたのやり方で、何か困ったことはあった?」
マルタは少し考えた。
「いいえ。ハルトさんは、少し驚いていらっしゃいましたけれど」
困ったことは、何も起きていなかった。違う順番だっただけだ。違うことと、間違っていることは、同じではない。
それを認めるのは、少しだけ痛かった。三年間の自分のやり方が、唯一の正しい道ではなかったと言われたような気がした。けれど、マルタは何も否定していなかった。ただ、別の道を歩いて、同じ場所にたどり着いただけだった。
クラリッサは、午前に作った受付の様式を引き寄せた。名前、用件、急ぎかどうか。その一番上に、一行を書き足した。
――今夜の火は、ありますか。
「これを、最初に聞くことにしましょう。時間の内でも、外でも。次からも、この順番でいいわ」
「よろしいのですか」
「ええ」
クラリッサは、ペンを置いた。
「私と違うやり方でも、届けばいいんですね」
言葉にしてみると、肩の力がほんの少し抜けた。手放すのは、まだ怖い。けれど、手放した先で、ちゃんと届くこともある。それを、今日ひとつ見た。
廊下から、重い足音が近づいてきた。書斎から戻ったローレンスが、珍しく渋い顔で戸口に立っていた。
*
「テオの巡回の案を、直してしまった」
相談室の椅子に腰を下ろすなり、ローレンスは言った。
「橋の補強が終わったあとの組み方だ。よくできていた。それなのに、半分読んだところで、ここはこうした方がいいと書き込んでいた。テオは黙って受け取ったが、あとで、なぜそこを変えたのか教えてほしいと言われた」
クラリッサは、思わず笑ってしまった。
「私も、同じことをしたばかりです」
午前の、三度先回りしたこと。午後の、扉の向こうで腰を浮かせたこと。マルタの順番の方が、ミナに届いたこと。ローレンスは黙って聞き、最後に、そうか、とだけ言った。どちらも、相手を慰めはしなかった。ただ、同じ種類の癖を持っていることを、少しおかしく思った。
「仕事の話は、ここまでにしましょう」
クラリッサは言った。窓の外の光が、もう傾き始めていた。
約束の時刻に、二人は相談室の隣の、控えの間へ移った。二日前の朝、謝罪を聞いたのと同じ部屋だった。
クラリッサは、懐から一枚の紙を出した。この二日のあいだ、少しずつ書き足してきたものだった。
「先に、知りたいことを書いてきました。三つです」
ローレンスが頷いた。
「一つ目。私が決めたことを、あなたは、あとからどう扱うのか。二つ目。この家で、私の名前でできる仕事は、どこまでなのか。三つ目。もし私が離婚を選んだら、今の調べの仕事は、どうなるのか」
ローレンスは、三つ目から答えた。
「結婚とは関係ない。期限まで、君の仕事だ。君がどちらを選んでも、それは変わらない」
迷いのない声だった。
「一つ目は」
少し間があった。
「変える前に、確かめる。市場のときにそう言った。それを、口で言うだけでなく、紙に書いて残しておく」
「二つ目は」
「分からない」
ローレンスは、正直に言った。
「今の私には、答えられない。君と決めたい」
クラリッサは、紙を膝の上で畳んだ。三つとも、すぐに満足できる答えではなかった。けれど、どれも嘘ではなかった。
「身体のことに協力しているのは、続けています。でも、それと、この結婚をどうするかは、別にしておいてください」
「ああ」
「判断は、まだ保留にします」
それから、次に話す時を決めた。王都から照会の返事が届いた時か、調べの仕事の期限が来る月末か。どちらか早い方。決めないまま、いつまでも宙に浮かせておくのは、嫌だった。
「続けていることと、決めたことは、別にしておいてください」
ローレンスは、もう一度、頷いた。それで十分だった。
自室へ戻ると、クラリッサは文机の引き出しを開けた。記念日の夜に封をした、母への手紙。到着の目安まで書いたままだ。封を切り、新しい紙に書き直した。帰る日は、まだ決めていません。仕事を一つ、引き受けたので。
手紙をマルタに預け、廊下を戻りかけたところで、オズワルドの下の書記が、紙の束を抱えて追いかけてきた。午前に頼んだ、受付の件数の写しだった。
「奥様、照らし合わせていて、気になることが」
書記は、二枚の紙を並べて見せた。受付の控えと、倉庫の出庫の記録。
同じ受領番号が、二つの紙に、二度ずつ出てきていた。




