第19話「善意にも、勤務時間を」
一日に何件の相談を受けているのか、数えたことは一度もなかった。
零時を過ぎて、クラリッサは自分の身体に戻っていた。朝のうちに、ローレンスは自分の手で今秋分の返金に署名し、オズワルドがその控えを相談室へ届けてくれた。品目と日付の並んだ紙の端に、夫の字の署名がある。クラリッサはそれを木箱の一番上に置き、蓋を閉じた。
それから、帳面を開いた。
卓の向かいには、マルタが自分の控えの綴りを持って座っている。横には、洗濯場のリタが書いた小さな紙。二日前の相談会の日に、一着の袖と襟を直すのに、昼の時間をどれだけ使ったかが記してある。
「この二週間の分だけでいいの。来た人の数と、一人にかかった時間と、急ぎだったかどうか」
「急ぎ、というのは」
「今夜の火や食べ物に困っているか、病気の人がいるか。それなら一番急ぎ。数日のうちに何とかしたいものが二番目。いつでもいいものが三番目」
マルタが控えから日付と名前を読み上げ、クラリッサが帳面と照らし合わせる。時間は、どちらの記録にも書いていなかった。二人で記憶をたどった。あの人は長かった。この人は燃料券を渡してすぐ帰った。
紙の上に、数字が並んでいく。
一日に来る人は、多い日で七、八組。少ない日でも三組。一組にかかる時間は、短くて四半刻、長ければ一刻を超える。そこに修繕の時間が加わる。リタの紙によれば、手の早い者で一着に半日近く。
「……奥様の午前は、ほとんど毎日、埋まっておりましたね」
マルタが、書き出した紙を見下ろして言った。
クラリッサも、同じ紙を見ていた。朝食のあと相談室に入り、気づけば昼の鐘が鳴っていた日々。それが特別に忙しい日だったのではなく、ただの毎日だったのだと、数字が言っていた。
「数えてみると、私の朝はいつも、誰かのものでした」
口にすると、不思議な気持ちになった。驚きと、少しの誇らしさ。こんなに多くの人が、ここへ来てくれていた。そして、そのほとんどを、自分一人で受けていた。
マルタが控えの頁をめくり、ふと指を止めた。
「同じ言葉ばかりですね」
*
受付の欄に、同じ書き込みが繰り返されていた。
奥様へ直接。奥様へ直接。奥様へ直接。
門番か侍女が来客を受けたとき、用件を聞かずにそのまま相談室へ通した印だった。ほとんどの頁に、それが並んでいる。
「誰も、用件を聞いていなかったのね」
「聞こうとしたことは、ございます」
マルタが、少し言いにくそうに言った。
「でも、奥様にしかお話ししたくない、とおっしゃる方が多くて。わたしどもが伺うと、奥様はお忙しいのですか、と心配そうなお顔をなさるのです。それで、だんだん、そのままお通しするようになりました」
クラリッサは、頁の上の文字を見つめた。
最初の冬、来る人はまだ少なかった。名前を覚え、事情を覚え、次に来たときには、こちらから先に聞けるようになった。それが嬉しかった。あの人は奥様に聞いてもらえば安心だと、そう思ってもらえることが。
それが三年続いて、気づけば、自分の名前が受付の代わりになっていた。
「ほかの方には話してくださらない方もいます。それは本当です」
マルタは続けた。
「ただ、わたしどもが一度も用件を伺わないので、伺い方を覚える機会もありませんでした」
責める口調ではなかった。事実を並べているだけだった。
「奥様のお名前が、受付の代わりになっていたのですね」
クラリッサは、ゆっくり頷いた。
それは、自分が作った形でもあった。来る人を断らず、誰にも用件を分けさせず、全部を自分の部屋で受けてきた。善意で、そうしてきた。けれど、その善意を受け止める仕組みは、屋敷のどこにも作られなかった。報告する先も、手を貸す人の時間も。
名指しされる誇らしさは、そのまま、誰にも代わってもらえない重さだった。
クラリッサは新しい紙を一枚取り、線を引き始めた。
*
「受付の時間を、決めようと思うの」
「時間、でございますか」
「午前の二刻だけ。その時間に来た方は、まずマルタか、手の空いている侍女が用件を伺う。それから、私か、ほかの者か、決める」
マルタは頷きかけて、それから眉を寄せた。
「時間外にいらした方は、お帰りいただくのですか。町外れから歩いてきて、閉まっていたら」
それは、クラリッサも考えていたことだった。決まりで線を引けば、本当に困っている人まで帰してしまうかもしれない。最初に替わった日の朝、ミナとノエルは、薪のない家から歩いてきたのだ。
「緊急の方は、別にします」
紙に、三つ書いた。今夜の火がない。食べるものがない。病人がいる。
「このどれかなら、時間外でも受ける。どれに当たるかは、マルタが判断して。迷ったら、私かオズワルドに」
「わたしが、判断を」
「ええ。あなたの方が、来た方の顔を先に見るから」
マルタは、紙の三行をしばらく見ていた。それから、はい、と短く答えた。
「それから、遺族の扶助のことで来る方には、オズワルドの下の書記に同席してもらいたいの。申請がどこまで進んでいて、支給がいつになるか、その場で確かめられるように」
最初に替わった日、夫が妻の姿で受けた相談。申請はもう済んでいて、支給を待っていた。それを確かめるのに、夫は隣の部屋まで聞きに行かなければならなかった。書記がいれば、その場で分かる。
「これは、ずっと続ける決まりではありません。調べの仕事が終わる月末までの、試しです」
クラリッサは、決めたことを短い文にまとめた。玄関の横に掲示できるくらいの長さに。受付は午前の二刻。急ぎの方はいつでも。
書きながら、胸の奥で何かが落ち着かなかった。線を引くことは、誰かを遠ざけることのような気がした。それでも、紙を見下ろしていると、罪悪感より安堵の方が、ほんの少しだけ勝っていた。
「相談する時間にも、終わりがあっていいはずです」
マルタが、小さく笑った。
「では、さっそく試してみましょうか。玄関に、お一人いらしているそうです」
*
来たのは、三十ほどの女だった。娘を学習会に通わせたいが、今年から北の部屋が使えないと聞いて、と言う。
マルタが向かいに座り、クラリッサは窓際の椅子に下がった。今日は、聞くだけにするつもりだった。
「娘さんは、おいくつですか」
マルタが尋ねた。
「その子は、去年も来ていた子ね」
クラリッサの口が、先に動いていた。
「九つで、字はもう少し読めるの。冬になると咳が出やすいから、北の部屋が寒いのを気にしていらしたのよね。今年は東の小部屋にしたから、暖炉に近い席を――」
言いながら、女が頷き、マルタが口を閉じるのが見えた。
マルタは、もう一度何か聞こうとした。
「お家からは、どのくらい――」
「市場の裏の通りだから、四半刻もかからないわ。前は、お母様が送ってきていらしたけれど」
また、マルタの言葉が途中で消えた。
三度目に、マルタが息を吸ったとき、クラリッサはようやく気づいた。自分が全部、答えてしまっている。マルタが聞こうとしたことを、マルタより先に。
女は満足そうに帰っていった。次の学習会の日を確かめ、奥様にお会いできてよかった、と言って。
扉が閉まると、相談室は静かになった。
マルタは、控えの綴りに今の相談を書き込んでいた。いつもより、少しゆっくりとした手つきだった。書き終えると、ペンを置いて顔を上げた。
「奥様」
穏やかな声だった。
「私にも、最後まで考えさせてください」




