第18話「私の仕事を、勝手に決めないで」
差し出された紙には、私の名前の下に、私の知らない肩書きが書いてあった。
昼の鐘が鳴ったとき、オズワルドが食事の支度ができたと告げに来て、紙はいったん畳まれた。午後、書斎に戻ると、ローレンスはそれをもう一度、卓の上に丁寧に広げた。
生活支援責任者。クラリッサ・エルヴェイン。
その下に、所管する仕事が並んでいた。冬衣の配給。相談の窓口。学習会。修繕。燃料券の運用。遺族の扶助の取次ぎ。最後の行に、報酬は相応の額を毎月支払う、とあった。朝のうちにオズワルドと考えたという案で、家令の整った字で、額まで書いてある。
「君がしてきたことを、正式な仕事にしたい」
自分の顔が、自分にそう言った。灰色の普段着の、細い指が紙の端を押さえている。声は自分の声なのに、話し方は夫のものだった。言葉を選ぶときに、少しだけ息を止める癖。
クラリッサは、紙を見下ろした。
嬉しくなかったと言えば、嘘になる。三年間、誰の帳簿にも載らなかった仕事に、名前がつく。報酬がつく。自分のしてきたことが、ようやく仕事として見えるようになった。その証拠が、目の前にあった。
けれど、行を追ううちに、胸のどこかが少しずつ狭くなっていった。
冬衣、相談、学習会、修繕、燃料、遺族。今までしてきたことが、全部ここにある。全部、これからも自分がやることになっている。いつまで、とはどこにも書いていない。何をしなくていいのか、も書いていない。
「……期限は、ないのですね」
「期限?」
ローレンスが顔を上げた。
「正式な役職だ。続けてもらうつもりで書いた」
クラリッサは、夫の大きな手で紙を持ち上げ、それから卓に戻した。
「すぐには、署名できません」
*
ローレンスの顔に、戸惑いが浮かんだ。自分の顔がそういう表情をするのを、クラリッサは不思議な気持ちで見た。
「報酬が足りないなら、オズワルドと――」
「足りないのではありません」
クラリッサは首を振った。
「評価していただけたのは、嬉しいです。本当に。でも、私はこの仕事を、一生続けると決めたことがありません」
言ってみて、自分でも驚いた。そうだったのだ。決めたことは、一度もなかった。目の前の子に服が合わなかったから直した。直した服を持ってきてくれる人がいたから、また直した。相談に来る人がいたから、聞いた。それが三年続いた。
「始まったから、続いていただけなんです」
「だが、君がいなければ――」
ローレンスは言いかけて、止まった。
自分が口にしかけた言葉を、彼は聞き直しているようだった。君がいなければ、誰がやる。それは、五日前の昼、市場の訪問を取り消したときと、同じ形の言葉だった。君のためだと思って、先に決める。
ローレンスは、紙の上に手を置いたまま、しばらく黙っていた。
「……私が先に、決めていたんだな」
「はい」
クラリッサは、責める声にならないよう気をつけた。
「この案をいただけたことは、ありがたいと思っています。でも、受けるかどうかは、私に選ばせてください」
それから、もう一つ、言っておかなければならないことがあった。
「認めてくださるなら、断ることも認めてください」
ローレンスは、ゆっくりと頷いた。紙を手元に引き寄せ、ペンを取る。肩書きの行の横に、保留、と小さく書いた。妻の身体の手で、彼自身の字だった。
それから、その紙を、卓の脇へ寄せた。捨てたのではなく、今は使わない場所へ置いた。
*
「午前の返金のことは」
ローレンスが言った。
「この紙とは関係がない。君が受けても受けなくても、返す」
「はい」
クラリッサは、ほっとした。そこを混ぜられたらどうしようと、どこかで思っていたのだ。返してもらうお金と、これからの仕事。一つにまとめれば、まるで役職を引き受けた見返りに精算されるように見えてしまう。
「返していただくお金と、これから働く条件は、別の紙にしてください」
「分かった」
ローレンスは少し考え、オズワルドを呼んだ。家令は帳簿と一緒に、五日前の朝、会議に出る前に作った書付の写しを持ってきた。
冬衣配給の調査担当。期間は今月末まで。手当ての条件は追って定める。
「この、追って、を、今日決めよう」
ローレンスが言った。
「今月の調べの仕事について、日当を出す。君がこの書付を受け取った日から数えて、働いた日の分だ」
オズワルドが、日当の額を書き添えた。役職の案に書かれていた月の報酬とは比べものにならない、ささやかな額だった。けれど、そこには日付と、何の仕事に対してなのかが、はっきり書いてあった。
「働いた日は、私が記録します。支払いは、調べが終わったときにまとめて」
クラリッサは書付の写しを読み、頷いた。
「これは、期限のある調べの仕事ですね。恒久の役職ではなく」
「そうだ。今月末までの仕事だ」
紙の上に、夫の――今は妻の手の――字で、日当の行が書き加えられた。善意の手伝いではなく、条件のある仕事。その一行が、さっきの長い肩書きよりも、クラリッサには重く感じられた。
それで満たされたわけではなかった。お金の問題ではないと、さっき自分で言ったばかりだった。ただ、自分が何を引き受けていて、何を引き受けていないのかが、ようやく紙の上で分かった。
「では、ほかの仕事は」
オズワルドが、脇へ寄せられた案に目をやった。
*
「冬衣の調べは、続けます」
クラリッサは言った。
「それは私が選んだ仕事です。月末まで」
それから、案に並んでいた残りの行を、一つずつ思い浮かべた。相談の窓口。学習会。修繕。
「ほかのことは、誰かに渡すつもりで、整理させてください。すぐに手を離すのではありません。渡せる形にするまでは、私も関わります」
「誰に渡す」
「それは、まだ決めません」
ローレンスは、何か言いかけて、やめた。代わりに、マルタを呼んでくれと家令に頼んだ。
マルタが来ると、クラリッサは相談室の帳面を持ってきてもらった。何を渡すのかを確かめるには、まず何が書いてあるのかを見なければならない。
帳面を開く。日付。名前。用件。渡した物。次に来る日。几帳面に並んでいる。
けれど、それだけだった。
なぜこの家を先にしたのか。なぜこの子には上着ではなく燃料券を渡したのか。なぜこの人には、次は夕方に来てくださいと言ったのか。理由が、どこにも書いていない。余白の小さな書き込みが、ところどころ手がかりになるくらいだ。
「奥様は、いつもご自分で覚えていらっしゃいましたから」
マルタが、遠慮がちに言った。
クラリッサは頁をめくった。めくるほど、自分の記憶だけが頼りだったことが分かってくる。この人の母親は咳が出やすい。この家は昼に誰もいない。この子は冬になると学習会に来なくなる。どれも、頭の中にはある。帳面には、ない。
「何を渡すのか、まず私が書けていませんでした」
自分の声が、夫の喉から低く出た。
手放したいと思った。けれど、手放すための材料が、どこにもなかった。三年分の判断は、ほとんど全部、自分の中にしまわれたままだった。
帳面の最後の頁まで来て、クラリッサは手を止めた。
引き継げる記録は、ほとんど残っていなかった。




