第17話「私のお金は、私のものです」
夫の指で領収書をめくると、紙が自分のものだということが、かえってはっきりした。
昨夜十時、控室で二人は、次の四日間も零時を迎えることにした。毎晩確かめる、という約束はそのままに。今朝、控室で交わした申し送りは短かった。左の肩が冷えると張る。目の奥が、まだ少し重い。それぞれの身体の持ち主が、それぞれの痛みを相手に預けた。
夫の書斎の卓に、クラリッサは自分の部屋から持ってきた木箱を置いた。蓋に手をかける。大きな手の下で、小さな箱はいっそう小さく見えた。
開けると、店の受け取りが重なっていた。その下に、母の手紙と、王都の商会の礼状と、青い押し花。クラリッサは上の紙だけを取り出し、底のものには触れずに蓋の内側へ寄せた。
身体が誰のものであっても、この箱の中から何を出すかを決めるのは、自分だった。
オズワルドが帳簿を抱えて入ってきた。昨日の色札の並んだ紙を広げ、それから、卓の向こうの顔を見て言った。
「旦那様のお手元で、ご確認いただくということで」
「オズワルド」
クラリッサは、夫の低い声をできるだけ静かに使った。
「これは、私の書類です」
家令は一瞬、目の前の顔を見つめ直した。それから、中に誰がいるのかを思い出したように、小さく頭を下げた。
「失礼いたしました、奥様」
「この箱も、中の紙も、私のものです。今日はたまたま、この手でめくっているだけです」
言ってしまうと、少し気恥ずかしかった。夫の太い指が、三年前の自分の小さな字をなぞっている。その光景が、どこか滑稽に思えた。けれど、口にしたことで、胸の奥の落ち着かなさがすっと収まった。
クラリッサは、昨日の赤い札の紙を日付の順に並べ直した。
*
赤い札は、思っていたより多かった。けれど、全部が同じではなかった。
「これは、配給の上着を直した糸です。これも。こちらは学習会の白墨と石板」
一枚ずつ、用途を言いながら左へ寄せる。
「これは」
指が止まった。町の菓子屋の受け取りだった。去年の冬、学習会に来た子どもたちに、砂糖菓子を一つずつ配ったときのものだ。
「これは、私が渡したかったものです」
もう一枚。小間物屋で、毛織りの肩掛けを買った控え。夫を亡くしたばかりの若い母親が、薄い外套で相談に来た日のことを覚えている。あの日、クラリッサは自分の肩掛けを渡し、翌日、自分の分を買い直したのだった。
「これも、贈り物です。請求はしません」
オズワルドは何か言いかけて、黙ってその紙を右へ分けた。
マルタが、町の婦人会の寄付の名簿を持ってきた。白い札の紙と見比べていくと、二つの日付が名簿の記録と重なった。端布と、毛糸の玉。白い札が、二枚、青に替わった。残りの白は、まだ誰も覚えていない。
「それから、こちらでございますが」
オズワルドが、燃料券の綴りを卓に置いた。最初に替わった日、夫が妻の姿で一枚切ったのと同じ、青い表紙の綴りだ。
「昨日から気になって、燃料小屋の帳面を見てまいりました。この券で引き換える薪は、屋敷の燃料小屋のものでございます。薪代は、屋敷の暖房の費用から出ておりました」
「では、私のお金ではないのですね」
「はい。ただ、扶助の費用としても、どこにも載っておりません。屋敷の暖房に、そのまま混ざっておりました」
クラリッサは、少し考えてから、卓の端に新しい場所を作った。
公の仕事のために自分が立て替えたもの。自分が贈りたくて贈ったもの。出どころの分からないもの。そして、屋敷が払ってはいたが、違う名前で記されていたもの。
四つの小さな山が、卓の上に並んだ。
「私が届けたかったものまで、領地に払っていただくつもりはありません」
全部が自分の犠牲だったわけではない。全部が善意で済む話でもない。分けてみると、それがよく分かった。分けられたことに、クラリッサは小さな手応えを感じた。
オズワルドが、四つの山を見比べ、それから遠慮がちに口を開いた。
「奥様。それでは、ひとつ整理の案がございまして」
*
「これまで奥様がお立て替えになった分は、旦那様のご家計にまとめさせていただいて、奥様へのお手元金を増やす、という形でいかがでしょう。毎月のお小遣いに上乗せすれば、帳簿も簡単に済みます」
家令の声は、心から親切だった。厄介な精算から奥様を解放したい。そう思っているのが伝わってきた。
だからこそ、クラリッサはすぐには首を振らなかった。
「それだと、何に使ったお金を返していただくのかが、消えてしまいます」
「消える、でございますか」
「お小遣いが増えたら、それは夫から妻へのお金になります。でも、この糸は、配給の上着を直すために私が払ったものです。返していただくなら、何の分を、いつ、いくら、と書いた紙にしてほしいんです」
クラリッサは、左の山の一番上の紙を指で押さえた。
「品目と日付を並べた明細を作って、私の名前で署名して、請求します。それを確かめて、払うかどうか決めるのは、領地の側です」
オズワルドは、ゆっくりと頷いた。それから、少し困ったように、目の前の顔を見た。
「では、その署名と、お支払いのお許しは」
「今日、この手で、自分への支払いを許すことはしません」
クラリッサは、夫の大きな手を卓の上に置いた。
「この顔で許したら、夫が許したことになってしまいます。でも中にいるのは、受け取る側の私です。それは、どちらの名前にとっても、よくありません」
家令はしばらく黙っていた。それから、帳簿を閉じた。
「領地の費用と、私の贈り物は、分けてください」
それは、怒りではなかった。三年間、口にしようとして飲みこんできた言葉を、ようやく順番どおりに並べられた、というだけだった。
扉が叩かれた。灰色の普段着の、自分の姿をしたローレンスが入ってくる。マルタが下書きした明細の紙を、家令が黙って差し出した。
*
ローレンスは椅子に座り、明細を一行ずつ読んだ。妻の身体の細い指が、紙の端を押さえている。右の山の、菓子屋と肩掛けの紙には、手を伸ばさなかった。
「こちらは、請求に入っていないんだな」
「贈り物ですから」
ローレンスは頷き、それ以上は聞かなかった。
「決めることを、言う」
彼はオズワルドに向き直った。
「今秋の分で、公の仕事のための立て替えと分かっていて、受け取りがあるものは、返す。それは今日決める。払うのは明日だ。私が自分の身体に戻ってから署名して、オズワルドが払う」
「承知いたしました」
「去年より前の分は、受け取りのあるものから順に確かめる。受け取りのないものは、店の帳面を見せてもらう。それでも分からないものは、保留にしておく。急いで決めて、間違えたくない」
クラリッサは頷いた。全部を今日決めてもらおうとは、思っていなかった。
「それと、これからのことだ」
ローレンスは、明細の余白に指を置いた。
「調べの仕事で、また何か買うことがあるだろう。そのときは、先にオズワルドから仮に渡しておく。間に合わなければ、受け取りを添えて、週ごとにまとめて精算する。君の財布を先に開かせることは、もうしない」
自分の顔が、自分の財布の話をしている。奇妙な光景だったが、言葉の中身は、クラリッサがずっと欲しかったものだった。
「返すのは、貸してもらっていたものだ」
ローレンスは、静かに付け加えた。
「私が与えるものではない」
クラリッサは、思わず息を吐いた。夫からのお金としてではなく、自分が貸していたものとして扱われる。その違いを、彼は分かっていた。
ローレンスの肩から、少し力が抜けたように見えた。ひとつ片づいた、という顔だった。
「それなら」
彼は上着の――クラリッサの普段着の――内側から、折り畳んだ紙を取り出した。
「ついでに、仕事のことも、今日決めてしまおう。朝のうちに、オズワルドと考えておいた」
卓の上に広げられた紙の一行目に、生活支援、という文字が見えた。
その下に、自分の名前が書いてあった。




