第16話「帳簿にない三年間」
領収書の束は薄かった。けれど、その間に挟まっていた年月は薄くなかった。
昼まで休んで、昼食のあとに衣類の相談を一件だけ聞いた。目の奥の重さは、朝より少し軽くなっていた。
午後の書斎の卓には、オズワルドが抱えてきた帳簿が広げられていた。冬衣の配給と、それに続く支援の活動にかかった屋敷の支出を、家令が一覧にしようとしたものだ。
「こちらが、屋敷の正式な帳簿から拾ったものでございます」
一覧には、整った字で品目が並んでいた。秋の配給用に屋敷が買い入れた布。倉庫の使用料。運び賃。屋敷の備品として買った糸と針の一部。
ローレンスが、一覧の端から端まで目を通した。
「領地の会計そのものに、穴があるわけではないんだな」
「はい。国境守備隊の支出も、民政局の配給の支出も、それぞれの帳簿にきちんとございます。この屋敷が買ったものも、ここに」
オズワルドは、一覧の下半分を指した。そこは、白いままだった。
「ですが、奥様がなさっていた直しのお仕事、学習会、相談のお部屋。その材料と、かかった時間を入れる項目が、どの帳簿にもございません」
学習会で子どもたちが使う石板と白墨。相談の部屋で焚く薪。来た人に出す温かい飲み物。直しに使った糸と端布。燃料券の綴りも、どこから出ていたのか、家令には分からないと言った。
「別のところに控えがあるのではないかと、もう少し探してみれば」
「控えは、あると思います」
クラリッサは一覧の白い部分を見つめた。
「でも、控えを見つけても、誰が払ったのかが分からなければ、同じです。昨日の納品の綴りのように」
夫人手配、と書かれた文字を思い出した。
「活動があったことと、費用が載っていることは同じではありません」
オズワルドは黙って頷き、マルタを呼びに行った。
まもなく、卓の上には三種類のものが並んだ。オズワルドの正式な帳簿と一覧。マルタが持ってきた、屋敷の納品の控え。そして、クラリッサが自分の部屋から持ってきた、小さな木箱。
*
木箱は、記念日の夕方に蓋を閉じたときのままだった。
クラリッサは、蓋に手をかけた。
この箱には、店の受け取りだけが入っているわけではない。母からの短い手紙が一通。結婚前に王都の商会で一度だけ翻訳を手伝ったときの、礼状。押し花にした小さな青い花。どれも、誰かに見せるために入れたものではなかった。
ローレンスは、卓の向こうで座ったままだった。手を伸ばそうとはしなかった。
「何が要る」
ただ、そう尋ねた。
「この秋からの、直しと学習会と相談の部屋の材料の受け取りです」
クラリッサは蓋を開け、自分の手で、店の名の入った紙だけを一枚ずつ取り出した。母の手紙と礼状と押し花は、箱の底に残した。夫の目がそちらへ向かないことを、目の端で確かめた。
「私の物を全部調べるのではなく、この活動の費用を確かめましょう」
取り出した紙を、日付の順に並べる。その横に、マルタが納品の控えを、同じく日付の順に開いた。オズワルドが、帳簿の該当する頁を探す。
マルタが小箱から、色の違う小さな札を三種類出した。もともとは糸の種類を見分けるために使っていたものだった。
「寄付でいただいたものには、青を。奥様がお買いになったものには、赤を。まだ分からないものには、白を」
一枚目。端布一反、納品済み、夫人手配。その日付には、クラリッサの手元に受け取りがない。マルタが控えの余白を見て、町の婦人会から寄付で届いたと記した日だと言った。青。
二枚目。黒糸三巻、納品済み、夫人手配。その日付に、小間物屋の受け取りがある。クラリッサの字で、自分で払った、と書き添えてある。赤。
三枚目。毛織りの切れ端一包み。受け取りはなく、控えにも寄付の記録はない。ホルストからの布の一部だったかもしれない。誰も覚えていなかった。白。
一枚ずつ、札が置かれていく。青、赤、赤、白、青、赤。
クラリッサは手を止めた。赤い札が置かれた紙の日付が、秋だけでなく、去年の冬にも、その前の冬にも続いていることに気づいたのだ。箱の下の方にあった紙は、色が少し褪せていた。
「ここにあるのは、この秋の分と、去年の分の一部です」
クラリッサは言った。
「全部ではありません。なくした受け取りもあると思います。だから、いくらになるのかは、まだ言えません」
ローレンスは、札の並んだ紙の列を、しばらく黙って見ていた。
*
「なぜ、言わなかった」
ローレンスが口を開いた。言ってから、すぐに顔を上げた。
「……いや」
彼は自分の言葉を止めた。それから、オズワルドの方を向いた。
「この活動の費用を、誰かに報告する決まりはあったか」
「ございませんでした」
家令は答えた。
「どこに報告すればよいのかも、どの項目に入れればよいのかも」
ローレンスは、ゆっくりと頷いた。
「言う先が、なかったんだな」
オズワルドが、帳簿を閉じた。その手が、わずかに震えていた。
「私は、奥様のなさることは、奥様のご家庭の内のことだと思っておりました。屋敷の夫人がなさる善いお仕事は、ご自分のお手元で賄うもので、領地の費用として上げるものではない、と」
家令の声は、低かった。
「ですから、夫人手配と書いたのです。それで、私の帳簿は合っておりました」
クラリッサは、家令を責める言葉を持っていなかった。そしてもう一つ、言わなければならないことがあると思った。
「私も、曖昧なまま続けてきました」
ローレンスとオズワルドが、こちらを見た。
「最初は、目の前の子に合う服がなかったから、自分で直しただけでした。それが、気づいたら毎年になって、学習会になって、相談の部屋になって。どこまでが私の善意で、どこからが領地の仕事なのか、自分で線を引かないまま、引き受けてきました」
それは本当だった。けれど、それだけでは終わらせたくなかった。
「でも、私が会議に出たいと言ったとき、それは断られました。翻訳の仕事も。報告する先を作ってほしいと言う場所が、私にはありませんでした」
ローレンスは、目を伏せなかった。
「ああ。その場所を閉じたのは、私だ」
クラリッサは、札の並んだ紙の列に目を戻した。赤い札が、思っていたよりずっと多かった。
「善意で始めたことを、ずっと私費で続けるつもりではありません」
*
窓の外が、夕方の色になり始めていた。
「これから、どうしたい」
ローレンスが尋ねた。
「この仕事を、正式に――」
言いかけて、彼はまた言葉を止めた。何かを決めて差し出す前に、聞くことを思い出したような顔だった。
「……君は、どうしたい」
クラリッサは、少し考えた。
「今している仕事を、全部これからも続けるとは、約束できません」
自分の声は、思っていたより落ち着いていた。
「まず、何にいくらかかっていたのかを、きちんと分けたいです。返していただくものがあるなら、その根拠をはっきりさせたい。それから、どの仕事を続けて、どれを誰かに渡すのかを、自分で選べるようにしたいんです」
「分かった」
ローレンスは頷いた。
「明日、オズワルドに会計の整理を頼む。この仕事の役割をどうするかは、君の希望を聞くまで決めない」
明日は、零時を越えればまた身体が替わる日かもしれなかった。それを続けるかどうかは、今夜十時に、控室で二人で確かめる。それは、この卓の上の話とは別のことだった。
オズワルドが、閉じた帳簿の上に両手を置いた。家令は、しばらく何も言わなかった。それから、深く頭を下げた。
「旦那様。奥様。私は」
言葉が、一度途切れた。
「奥様のお財布を、領地の予算と思っていました」
書斎が、静かになった。
クラリッサは、木箱の蓋を閉じなかった。まだ札の置かれていない受け取りが、箱の中に何枚も残っていた。
彼女はその中から次の一枚を取り出し、日付を確かめた。マルタの控えと並べ、自分の字の書き添えを読む。それから、赤い札を一つ取って、自分の手で、その紙の上に置いた。




