第15話「会議を断ったのは、私だった」
会議室の椅子は同じだった。それでも今日は、自分の名前で座っていた。
零時に自分の身体へ戻って、朝、最初に感じたのは目の奥の重さだった。肩も、首の付け根から固い。昨日、夫がこの身体で引き受けてくれていた疲れだ。眠ったぶん少しは軽くなっていたが、消えてはいなかった。
朝食のあと、相談室の前を通ると、ローレンスがマルタと話していた。
「今日の受付は、予定どおり君に頼む。来た人には、どの用件かを聞いて、暖炉の部屋で待ってもらってくれ。扶助の確認は、会議が終わったら私がやる。去年の記録は、もう出してある」
「承知いたしました。衣類のご相談の方は」
「クラリッサが、会議のあとに少し休んでから聞く。それまで、急ぎでなければ待ってもらえるか聞いてくれ」
マルタは頷き、紙に書き留めた。昨夜決めたことが、そのまま朝の言葉になっていた。
ローレンスは、クラリッサに気づいて振り返った。
「今日の議題だ」
差し出された紙には、冬支度の項目が並んでいた。三番目に、冬衣の試験配給について、調査担当より報告、とある。
「君が報告するのは、四軒の結果までだ。それ以外のことを、急に聞いたりはしない」
「ありがとうございます」
クラリッサは紙を受け取った。それから、少し迷ってから言った。
「肩と目が、まだ疲れています。報告は短くします。それと」
自分の疲れを、自分から口にするのは慣れなかった。三年間、平気な顔をしているのが当たり前だったから。
「今日は、この報告までで一度休みたいです」
ローレンスは、すぐに頷いた。
「会議のあと、昼まで部屋で休んでくれ。何かあっても、マルタか私が受ける」
*
会議室の卓の端、書記の向かいの席に座った。四日前と同じ席だった。倉庫の管理役も、民政局の配給担当も、受取所の責任者も、もうクラリッサがそこに座ることに驚かなかった。
三番目の議題になると、ローレンスは何も言わずに、彼女の方を見た。
クラリッサは紙を一枚、卓に置いた。
「倉庫の乙の三に残っていた子ども用上着を、受取所の近くの四軒で試しに配りました。子どもは六人。そのうち五人は、その場で合いました」
管理役が、小さく頷いた。
「一人は、襟が広すぎました。それは私がその夜に直しましたが」
言ってから、クラリッサは少し言葉を選んだ。
「本当は、直す担当を決めていませんでした。今回は一着だったので私がやりましたが、同じことを受取所ごとにやれば、私だけでは間に合いません」
紙には、それも書いてあった。六人中五人、そのまま着用。一人、襟の詰めが要る。修繕は調査担当が個人で実施。担当未定。四軒に、朝からほぼすべての時間。
オズワルドが、壁際から口を開いた。
「これほどの結果でしたら、ほかの受取所でも、すぐに」
「どの受取所で、誰が名簿の欄を書いて、誰が直すのか、まだ決まっていません」
クラリッサは家令の方を見た。
「費用も、材料の分は昨日決めていただきましたが、直す人の手間の分はまだです」
民政局の配給担当が、自分の帳面から顔を上げた。
「奥様、名簿の三つ目の欄、受け取りの方法というのは、こちらの受取所でも書けますか。今の係では、全部の家に聞いて回る余裕はないのですが」
夫ではなく、自分に向けられた質問だった。クラリッサは答えた。来た人に一言聞くだけでいい。来なかった人の分は、まだ書けなくていい。
ローレンスは、最後まで口を挟まなかった。議題が終わるとき、彼は短く言った。
「拡げる件は、急がない。午後に会計を確かめてから、次を決める」
うまくいったことだけを並べた方が、きれいな報告になったかもしれない。けれど、それでは次に何が要るのかが見えなくなる。
「うまくいったことも、まだ出来ないこともあります」
クラリッサがそう言って紙を閉じると、何人かが頷いた。
会議が終わり、人が出ていく。立ち上がりかけたクラリッサに、ローレンスが声をかけた。
「休む前に、少しだけ時間をもらえるか。仕事の話ではない」
*
隣の小さな控えの間で、二人は向かい合って座った。
「長くはしない。君は休まなければならない」
ローレンスはそう前置きして、膝の上で手を組んだ。その手が、少し強ばっているのが分かった。
「一年目の秋に、君は会議に出たいと言った」
クラリッサは、黙って聞いていた。
「私は、君が無理をする必要はない、と答えた。君を疲れさせたくなかった。それは本当だ。だが」
ローレンスは一度、言葉を切った。
「君が会議で何を見たかったのか、何を言いたかったのか、私は一度も聞かなかった。聞かずに、自分で決めて、それで終わりにした」
窓の外で、荷車の音が遠く過ぎていった。
「君の希望を断ったのは、私だった」
クラリッサは、夫の顔を見た。
謝罪の言葉を、待っていなかったわけではない。けれど、実際に聞いてみると、胸の中で何かがほどけるのではなく、むしろ、ずっと押しこめてきたものが表に出てくる感じがした。
慰めの言葉が、喉まで出かかった。もういいんです、とか、事情があったのは分かっています、とか。三年間、そうやって夫の顔色を先に整えてきた。
クラリッサは、その言葉を口にしなかった。
「あのとき、私は、自分の望みが重い荷物みたいに扱われたと感じました」
自分の声が、静かだった。
「会議に出たい、と言えば、無理をするな。翻訳の仕事を、と言えば、忙しくなる。私が何かを望むたびに、それは危ないことか、大変なことに言い換えられて、返ってきました」
「……ああ」
「傷ついたのは、一度ではありません」
ローレンスは目を逸らさなかった。
父上が亡くなったばかりだった、とも、家令が奥様を心配していた、とも、彼は言わなかった。クラリッサは、それに気づいていた。
「あのとき、私は君の望みを聞いてから決めるべきだった」
ローレンスは言った。
「心配だったなら、心配だと言って、君と一緒に考えればよかった。私は、それをしなかった」
彼が挙げたのは、自分のしたことだった。何をしなかったのか、何をするべきだったのか。
クラリッサは、しばらく何も言えなかった。三年分の何かが、まだ胸の中で動いていた。それは一つの謝罪で消えるような重さではなかった。けれど、聞けてよかった、とは思った。
*
「今すぐ、結婚のことをお返事することはできません」
やがて、クラリッサは言った。
「謝っていただいたことは、聞きました。でも、それと、これからどうするかは、分けて考えたいんです」
「分かっている」
ローレンスは頷いた。
「返事を急がせるつもりはない。いつまでに、とも言わない」
「ただ、いつまでも決めないままにしておくのも、嫌です」
クラリッサは、少し考えた。
「明後日の夕方に、少しだけ時間をいただけますか。結婚のことを、短く話したいです。それまでに、先に知りたいことを書いておきます」
明後日なら、また自分の身体に戻っている日だった。
「分かった。明後日の夕方」
ローレンスは、それを自分の手帳に書いた。
「仕事の話とは、別の時間にしよう。冬衣の担当のことも、手当てのことも、その日には持ちこまない」
「はい」
それで、決まった。何かが解決したわけではなかった。ただ、次に話す日が、自分たちで決めた日として、手帳の上にあった。
クラリッサは立ち上がった。昼まで休むと約束していた。目の奥は、まだ重い。
控えの間の扉を開けたところで、オズワルドが廊下を急ぎ足でやってきた。手に、帳簿の束を抱えている。家令の顔は、いつになく曇っていた。
「旦那様、奥様。お休みのところ、申し訳ございません」
オズワルドは帳簿を胸に抱えたまま、一礼した。
「奥様の冬衣のお仕事の支出を、一覧にまとめようといたしました。昨日おっしゃった、日付での突き合わせの前に。ですが」
家令は、言葉を探すように一度口を閉じた。
「一覧に入れる先がない費用がございます」




