第14話「眠っている人の仕事」
針に糸を通すだけで時間がかかり、腕を下ろした時には肩が重かった。
ローレンスは妻の部屋の窓辺で、繕いかけの上着を膝に載せていた。午前に材料の支出を許した。直す人の手間はまだ決めていない。それなら、せめて一着くらいは自分の手で、と思ったのだ。
妻の身体なら、妻の指なら、できるのではないか。どこかでそう思っていた。
「袖口のほつれは、裏から針を入れて、二目先に出します。糸は引きすぎないように」
戸口の椅子に、自分の姿をしたクラリッサが座っていた。大きな身体で、膝の上の手をゆっくりと動かし、針の運びを空中でなぞってみせる。
ローレンスは言われたとおり、裏から針を入れた。布の目が細かくて、どこに刺せばいいのか分からない。二目先、と思ったところに出したつもりが、三目先に出た。糸を引くと、輪になって絡まった。
もう一度。今度は引きすぎて、布が縮れた。三度目は、針の先が指をかすめた。
「この手を使えても、君のやり方まで使えるわけではないんだな」
細く白い指を見下ろす。三年間、何十着もの上着を直してきた指だ。けれど、その指をどう動かすかを知っていたのは、指ではなく、妻自身だった。
ローレンスは針を針山に戻した。乱れた三目は、そのままにした。これ以上やれば、直す仕事を増やすだけだ。
針を置いた途端、目の奥が鈍く痛んだ。細かな目を追っていたのは、ほんの四半刻だった。それなのに、首から肩にかけて、板を入れたように固い。
「……君の身体は、いつもこうなのか」
言ってから、言い方がよくなかったと気づいた。弱い、と言ったように聞こえたかもしれない。
クラリッサは表情を変えなかった。夫の顔で、少しだけ首を傾けた。
「今日は、昨夜の襟の分もあります。その前の何日かの分も。いつもこうなわけではありません」
それから、自分の肩に手をやった。
「あなたの身体も、今朝から右の肩が張っています。寒いからだと思っていましたけれど」
ローレンスは、自分の身体の肩を見た。自分ではいつも、気にしたことがなかった。
「エダ先生に、診てもらおう」
*
エダは二人を順に診た。妻の身体の目を覗きこみ、首と肩を指で押す。ローレンスは思わず顔をしかめた。
「細かいものを長く見たあとの疲れと、肩の凝りです。病気ではありません」
医師はきっぱりと言った。
「魔法のせいで新しく何かが起きた、ということも、少なくとも今は見当たりません。ご自分のお身体にお戻りになっても、この疲れはこのお身体に残ります。今夜はよく眠って、明日も針と細かい字は控えてください」
それから、クラリッサの方を向いた。夫の身体の肩も押し、こちらも張っている、今夜は温めて休むように、と言った。
「眠れば、治るか」
「眠るのがいちばんです。ただ、一晩で全部というわけには」
ローレンスは頷き、すぐに言った。
「では、明日の針仕事は全部取りやめる。相談の受付も休みにしよう」
決めてしまえば簡単だった。休めと医師が言うなら、休ませればいい。
「待ってください」
クラリッサが言った。
「明日は、相談会の日です。来る人はもう決まっています。何も言わずに休みにしたら、町外れから歩いてきた人が、閉まった戸の前で帰ることになります」
「では、誰かに断りを――」
「断りを入れるのも、仕事です。それに、明日来る人の中には、扶助の支給日が近い人もいます。その確認は、明日のうちにしないと」
ローレンスは言葉に詰まった。休ませると言えば、それで済むと思っていた。けれど、休んだあとに残る用件は、誰も引き受けなければ、そのまま消えずに残る。最初に替わった日、妻の相談室で、オズワルドにそう言ったのは自分だった。
「休めと言うなら、代わりを一緒に考えてください」
医師が鞄を閉じながら、小さく頷いた。
「マルタを呼ぼう」
ローレンスは言った。
*
マルタは、明日の相談会の予定を書いた紙を持ってきた。来る人は五組。そのうち二組は扶助の確認、一組は衣類、二組は学習会のことだった。
ローレンスはその紙を卓に広げた。
「明日は、私は自分の身体に戻っている」
最初に、自分にできることを言った。
「扶助の確認は、私がやる。制度のことなら分かる。支給日の確かめ方も」
「受付は、わたしが」
マルタが言った。
「どなたが来られたか、何のご用か、伺ってお通しするところまでなら。いつもは奥様が全部お一人でなさっていましたけれど」
「衣類の相談は」
ローレンスが聞くと、クラリッサが答えた。
「私が話を聞きます。でも、聞くだけです。直すのは、私ではなく」
「縫い物の得意な者なら、洗濯場のリタがおります」
マルタが言った。
「ただ、あの子にも洗濯の仕事がございます。夜に残って縫わせるのは」
「それはさせない」
ローレンスは即座に言った。
「洗濯の仕事を、明日は誰かが少し代わる。リタには昼の時間で縫ってもらう。どれだけかかったかは、書いておいてくれ。手間の分を決めるときに要る」
マルタが紙に書きこんだ。
「学習会の二組には、日を一つずらしていただくよう、わたしからお伝えします」
「頼む」
紙の上で、五組の用件に、それぞれ別の名前が並んだ。扶助はローレンス。受付はマルタ。衣類の話はクラリッサ、縫うのはリタ。学習会の連絡はマルタ。
全部を一人で引き受けた方が早い、と一瞬思った。自分ならできる、と。けれど、それでは妻一人だったものが、自分一人になるだけだった。
「私が全部するのではなく、誰が出来るかを決めよう」
声に出して言うと、それが当たり前のことのように聞こえた。当たり前のことを、自分は三年間、一度も妻の部屋のためには考えなかった。
「今夜は、二人とも休む」
ローレンスはクラリッサを見た。
「君は私の身体で。私は君の身体で。どちらの身体も、今夜はもう仕事をしない」
クラリッサは、少し驚いたように瞬きをして、頷いた。
マルタが下がると、二人はそれぞれの部屋へ戻った。
*
夕食のあと、ローレンスは妻の部屋の長椅子に座っていた。
暖炉の火が静かに燃えている。膝には毛布をかけた。目を閉じると、まだ奥の方が少し重い。
明日の扶助の確認には、去年の支給の記録が要る。書斎の棚の、右から三番目の綴りだ。今のうちに取ってきてもらえば、明日の朝が楽になる。
ローレンスは立ち上がり、廊下を渡って書斎の扉を叩いた。
「入っていいか」
「どうぞ」
自分の姿のクラリッサが、暖炉の前の椅子に座っていた。肩に膏薬の匂いがする。右の引き出しのものを、自分で貼ったのだろう。
膝の上に、一冊の本が開かれていた。古い革の装丁で、角がすり切れている。大きな手が、頁の端をそっと押さえていた。
「それは仕事の資料か」
言いかけて、ローレンスは口を閉じた。
明日の綴りのことを頼みに来たのだった。今夜はもう仕事をしない、と言ったのは、自分だった。
「……いや、聞いただけだ。読んでいていい」
クラリッサは顔を上げた。夫の顔に、少しだけ戸惑ったような色が浮かんだ。それから、本を閉じずに、膝の上で少しだけこちらへ傾けた。
ローレンスは、その本に見覚えがあった。婚約したころ、妻が持ってきた本だ。北の街道を旅した商人の記録。宿の名前が多すぎると、彼女は笑っていた。
開かれた頁の余白に、細かな字が書きこまれていた。妻の字だった。印刷された宿の名の横に、矢印と、短い言葉がいくつも。
「どこまで読んだ」
「峠を越えたところです」
クラリッサは余白を指でなぞった。
「結婚する前に、少しずつ書きこんでいたんです。ほかの本で読んだことや、人から聞いたことを」
それ以上は、彼女は話さなかった。ローレンスも、聞かなかった。今夜は、聞き出すための夜ではなかった。
明日の朝、零時を越えて自分の身体に戻っても、妻の目と肩の疲れは、妻の身体に残る。朝のうちは、妻に何も頼まないようにしよう、とローレンスは思った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
扉を閉める前に、ローレンスはもう一度だけ振り返った。
暖炉の灯りが、開かれた頁を照らしていた。余白に書きこまれた細い字は、エルヴェインの領地のどこの村の名でも、どの受取所の名でもなかった。南の海沿いの宿場と、そこへ続く、彼の知らない道の名前だった。




