第13話「買えばいい、では足りない」
帳簿の中に、糸の色はあった。けれど、その糸を誰が買ったかはなかった。
零時に替わり、クラリッサは夫の書斎で目を覚ました。朝の決まりどおり、まず控室で互いの身体のことを伝え合った。
「肩は、昨日より楽だ。だが左は寒いと張る。膏薬は右の引き出しにある」
「私の身体は、目が少し疲れていると思います。昨夜、寝る前に襟を一つ詰めたので」
三軒目の女の子の上着だった。約束どおり昨夜のうちに仕上げ、今朝マルタが届けに行っている。その分の目の疲れは、今、ローレンスが引き受けていた。
書斎の卓には、オズワルドが用意した帳簿が開かれていた。この秋の冬衣配給に関わる、屋敷の正式な会計だ。家令の整った字で、品目、数量、単価、支払日が並んでいる。
大人用上着、何十枚。外套、何十枚。毛織りの肩掛け、何十束。運び賃。倉庫の使用料。どれも、きちんと支払われていた。
クラリッサは頁をめくった。夫の大きな指では紙が薄すぎて、二枚いっぺんにめくれそうになる。
「糸と針の項目は、ありますか」
「糸でございますか」
オズワルドは少し考え、別の綴りを持ってきた。屋敷の備品費の帳簿だった。
「こちらに。黒糸、灰色の糸、それぞれ何巻か。針も一包み」
「これは、何に使ったものですか」
「使用人のお仕着せの繕いと、屋敷の布物の手入れに。もっとも、奥様がお使いになる分も、ここから出ていたかもしれませんが」
かもしれない。クラリッサは、その言葉が気になった。
備品費の糸は、年に数巻だった。彼女が配給の上着を直すのに使った糸は、それよりずっと多い。木箱の中の控えを全部数えたことはない。けれど、一冬で数巻では済まないことだけは分かっていた。
「上着を子ども用に直した手間は、どこかに載っていますか」
オズワルドは帳簿の端から端まで目を走らせ、首を振った。
「直しの手間、という項目はございません。それは……奥様がお手配くださる分だと、私は思っておりました」
責める調子ではなかった。家令は本当にそう思っていたのだ。夫人が自分の時間で、自分の手で、どこからか材料を揃えて、片づけてくれる仕事。だから、屋敷の帳簿に載せる必要はない、と。
「買った服の費用はあります。着られるようにした費用は、どこですか」
オズワルドは答えられなかった。クラリッサは、帳簿の余白に小さく書いた。会計に載っている支払いと、実際に誰が払ったのかは、別かもしれない。
*
ローレンスが、クラリッサの姿で書斎に入ってきたのは、それからまもなくだった。
目元を何度か指で押さえている。ほんとうに疲れているのだろう、とクラリッサは思った。自分の目がそんなふうに重いことを、彼女はよく知っていた。
オズワルドが事情を話すと、ローレンスは帳簿を覗きこみ、すぐに言った。
「なら、足りない分は買い足せばいい。子ども用の上着を、町の受取所の数だけ」
迷いのない声だった。倉庫の二十四枚のうち、残りは十八枚。八つの受取所には、とても足りない。それなら買えばいい。この領地には、それくらいの余裕はある。
クラリッサは、その案を退けるつもりはなかった。それができるなら、それがいちばん早い。
「どの寸法を、何枚でしょう。それと、いつ届きますか」
ローレンスが言葉に詰まった。オズワルドが、手元の帳面を確かめた。
「すぐに注文できるのは、リュネの古着商と、南の仕立て屋からの既製品でございます。古着商のものは数日で揃いますが、ほとんどが大人の寸法です。子どもの寸法でまとまった数となると、南の仕立て屋に頼むことになります」
「どのくらいかかる」
「仕立てに十日、峠を越えて運ぶのにさらに五日。雪が早ければ、もっと」
窓の外は、灰色の空だった。今朝の霜は、昼になっても溶けきっていない。
「二十日近く、ということですね」
クラリッサが言った。
「そのあいだ、子どもたちは大人の袖を折って過ごすことになります」
ローレンスは、黙った。
「新しい服を買うまでの間にも、冬は来ます」
それは、責める言葉ではなかった。ただ、日付の話だった。
「だから、二つに分けたいんです。今ある大人用を直して、すぐに着られるようにする分。それから、南に頼んで、届くのを待つ分。どちらか一つでは、間に合わないか、足りないか、どちらかになります」
ローレンスは目元から手を離し、しばらく考えていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「直すにも、材料と手間がかかる」
「はい。それを、案にします」
*
クラリッサは紙を引き寄せ、二つの欄を作った。
材料。糸、針、襟や袖口に当てる端布。一着あたりのおおよその量と、何着分。
手間。一着を直すのに、手の早い人で半日。何着を、何人で、何日かけるか。
数字の横に、確かなものには丸を、まだ確かめていないものには三角をつけた。糸の値段は、木箱の控えから分かる。丸。何着直す必要があるかは、他の受取所でまだ聞き取っていない。三角。直す人を何人集められるかも、三角。
「南の仕立て屋の分は、別の紙にします。寸法と枚数は、今日の四軒の結果から仮に出して、他の受取所の分は、分かり次第足していきます」
書き終えた案を、オズワルドが手に取った。目を通し、それから顔を上げて、まっすぐクラリッサを見た。夫の顔を。
「旦那様、こちらの支出のお許しを――」
言いかけて、家令は口をつぐんだ。目の前の顔の中に誰がいるのか、思い出したのだ。それでも、領主の顔に向かって判断を求める癖は、そう簡単には抜けないらしかった。
クラリッサは、隣の椅子を手で示した。
「判断する本人は、こちらにいます」
オズワルドは小さく咳払いをして、灰色の普段着の夫人の方へ、案を差し出した。
「ここから先の支出の判断は、私が借りていいものではありません」
ローレンスは案を受け取り、丸と三角を一つずつ確かめていった。それから、オズワルドに尋ねた。
「今月の残高は」
家令が帳簿をめくり、数字を告げた。橋の補強の費用が、もう出ていた。
「材料の分は、今日許す。直す人の手間の分は、何人集められるか分かってからにしよう。南への注文は、半分の数で先に出す。残りは来週、他の受取所の聞き取りが進んでから決める」
クラリッサは、自分の案が半分に削られたのを見た。
「手間の分を後にするのは、なぜですか」
「人が決まらないうちに金だけ決めると、結局また誰かが一人でやることになる」
ローレンスは、案の上の三角を指した。
「それと、今月は橋の分がある。注文を全部出すと、雪が来る前の燃料の分が足りなくなるかもしれない」
理由は、どれも筋が通っていた。クラリッサは頷いた。削られたことが悔しくなかったわけではない。けれど、なぜ削られたのかを聞けたことは、三年間で初めてかもしれなかった。
*
「それでは、これまでの材料は、どこから来ていたのでしょう」
オズワルドが言った。家令の顔には、困惑が浮かんでいた。
マルタが、屋敷の納品の控えを持ってきてくれた。屋敷へ届いた物を、受け取った日付ごとに記した綴りだ。クラリッサは、秋からの頁を開いた。
端布、一反。納品済み。黒糸、三巻。納品済み。毛織りの切れ端、一包み。納品済み。
どれにも、受け取った侍女の印が押してある。品は確かに、この屋敷に届いていた。
けれど、支払いの欄には、同じ言葉が繰り返されていた。
――夫人手配。
「これは、奥様がお買いになったもの、ということでございますか」
オズワルドが尋ねた。
クラリッサは、すぐには答えられなかった。自分で店に行き、自分の財布から払ったものもある。木箱の控えは、その分だ。けれど、町の婦人たちが寄付として持ってきてくれた端布も、ホルストから届いた布の一部も、同じように屋敷へ運ばれ、同じように夫人手配と書かれていたはずだった。
「私が買ったものと、いただいたものが、混ざっていると思います」
全部が自分のお金だった、とは言えなかった。全部が寄付だった、とも言えない。どれがどちらなのか、ここに並んでいる文字からは分からなかった。
「マルタの控えと、私の木箱にある店の受け取りと、オズワルドの帳簿を、日付で突き合わせましょう」
ローレンスが、案の紙から顔を上げた。
「今日、精算するか」
「いいえ。まず、確かめるのが先です」
クラリッサは、綴りの頁を指で押さえた。
「届いたことと、誰が払ったかは、別々に確かめましょう」
窓の外で、昼の鐘が鳴った。
綴りの上には、受け取った侍女の印が整然と並んでいる。どの品も、確かにこの屋敷に届いていた。
けれど、その納品済みの印の下に、支払った者の名前は、一つも書かれていなかった。




