第12話「続けることも、止めることも」
自分の手で書けるうちに、続ける理由も、止める権利も書いておきたかった。
午後の控室には、冬の日が斜めに差しこんでいた。棚の上の台座は布を外され、二つの指輪がまだ窪みに並んでいる。卓の上には、オズワルドが書庫から出してきた図面と、クラリッサが今朝まで使っていた帳面があった。
約束の話は、もう少しあとにしよう、とクラリッサは昼に夫へ伝えていた。聞いてほしい話はある。けれどその前に、今夜の零時をどうするかを決めなければならなかった。
「こちらが、封の蓋でございます」
オズワルドは燭台を近づけ、台座の側面を照らした。蔦の彫りのあいだに、爪ほどの小さな蓋がある。その脇に、米粒ほどの白い石が埋めこまれていた。よく見ると、ごく淡く光っている。
「図面には、巡りのある間はこの石が光る、とございます。蓋を閉じれば、光は消える。次の巡りは来ない」
クラリッサは身を屈めて、石を覗きこんだ。三年間、この台座の前を何度も通ったのに、一度も気づかなかった。
「閉じたら、そのときの身体のままですね」
「はい。今日のようにお二人が自分のお身体にいらっしゃる日でしたら、そのままで」
「それから、完全に解くには」
「王都の原本と、解きの式が要ります。照会の返事を待つほかございません」
ローレンスが、図面の余白を指でなぞった。
「蓋は、どう閉じる」
「指で押しこむだけのようです。開けるときは、細い道具で引き出すと」
オズワルドは、そこで手を止めた。
「試しに閉じて、また開けてみることも」
「それはやめておきましょう」
クラリッサが言うと、ローレンスも頷いた。
「閉じたあと、開ければ元のとおりに巡るのかどうか、図面には書いていない。分からないことを、試しにやるのは怖い」
かわりに、クラリッサは帳面の新しい頁に書いた。封の蓋の位置。石の光の意味。閉じ方。閉じたら何が起きて、何が起きないか。閉じたいときは、誰に言えばいいのか。
「オズワルドだけが手順を知っていたら、私は止めたいとき、あなたに頼むことしかできません」
家令は、少し驚いた顔をした。
「止めたい時は、私もその手順を知っている必要があります」
ローレンスが帳面を覗きこみ、同じことを自分の手帳にも書き写した。
*
オズワルドが下がると、控室には二人だけが残った。
クラリッサは、窓際の椅子に座った。最初の夜、零時を待ったのと同じ椅子だった。ローレンスは扉の近くの椅子に。あの夜と同じ位置だったが、今日は二人とも自分の身体で、時計の針はまだ午後を指していた。
「今夜、閉じることもできますね」
クラリッサは言った。
「閉じても、冬衣の調べは続けられます。書付はもういただきました。倉庫の記録も、名簿も、自分の身体で読めます。離婚の手続きも、確かめてあります」
それは、昨日の夜から何度も自分に確かめてきたことだった。身体が替わらなくても、困ることは何もない。魔法がなければできない仕事は、一つもなかった。
「それでも」
クラリッサは、膝の上で手を重ねた。
「あなたの姿で、テオさんの持ってきた地図を見たとき、何も分かりませんでした。あなたの机に来る報告と、私の部屋に来る相談は、同じ領地のことなのに、まるで違う。その違いを、もう少しだけ、自分の目で見ておきたいと思っています」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。それが本当に仕事のための理由だけなのか、自分でも分からなかったからだ。
ローレンスは、しばらく黙っていた。
「私も、知りたい」
やがて、彼は言った。
「君の部屋で、ミナという人の話を聞いた。ホルストという男と話した。帳面を読んだ。それでもまだ、君が毎日何を考えて、何を決めているのか、半分も分かっていない」
それから、少し言葉を探した。
「ただ、私が知りたいからといって、続けてくれとは言えない。君の身体を借りることだ」
「あなたの身体を借りるのも、同じです」
クラリッサは頷いた。
「だから、借りる仕事は限ります。書類を受け取ること、話を聞くこと。決めるのは本人。オズワルドとエダ先生と、マルタと、テオさんが知っている範囲のことだけ」
「どのくらいの間だ」
「まずは、次の二日間だけ」
クラリッサは帳面に書いた。明日の零時に替わる日と、その次に戻る日。
「毎日、続けるかどうか確かめます。今日はいいと思っても、明日は嫌になるかもしれない。原本が届くまで、ずっと続けなければならないわけではないでしょう」
「そうだ」
ローレンスは即座に答えた。
「続けると決めても、止めたいとは言っていいのでしょう」
「言っていい。いつでも」
*
二人は、決めたことを一つずつ紙に書いた。
止めるのは、通常は二人とも自分の身体に戻っている日に。替わっている日でも、危ないことがあれば止めてよい。ただし、そのあとで身体を戻す方法は、照会の返事か、分かる人に確かめるまで分からない。その一行を、クラリッサは少し強く書いた。
「どちらかが止めたいと言ったら、次の安全なときに止める」
ローレンスが言った。
「理由は、聞かなくていいか」
「聞いてくださってもいいです。でも、言えないときもあると思います」
「なら、聞かない。止めたいと言われたら、止める」
クラリッサは、ペンを持つ手を少し止めた。
「止めたいと言ったことで、協力をやめた人とは思わないでください」
自分のためにも、夫のためにも、書いておきたかった。止めることが、相手を拒むことの証にならないように。続けることが、相手を受け入れたことの証にならないように。
ローレンスは、ゆっくりと頷いた。
「君もだ。私が止めたいと言っても、それは君の仕事を軽く見たからではない」
ほかの決まりは、最初の夜にエダの前で決めたものを、そのまま残した。重要な決裁はしない。身体ごとの記録をつける。相手の物には、聞いてから触れる。
変えたのは、二つだけだった。
「替わる日の朝、身体の持ち主が、痛むところや疲れているところを、一言伝えておくことにしませんか。昨日、あなたの肩が張っているのを、昼になって知りました」
「分かった。それと」
ローレンスは、帳面の頁を指で押さえた。
「相手の帳面は、本人が開いていいと言った頁だけにしよう。昨日、君は場所しか教えてくれなかった。私は、全部読んでいいのかどうか、迷った」
クラリッサは、それも書き足した。
毎晩十時に、この控室で、その夜の零時をどうするか二人で確かめる。オズワルドは、その返事を記録する。
書き終えた紙を見下ろして、クラリッサは不思議な気持ちになった。六日前の夜、この台座の前で指輪を外したときには、こんな紙を書くことになるとは思ってもいなかった。
*
ローレンスは、上着の内側から薄い革の書類入れを取り出した。
「これを、返しておく」
中に入っていたのは、クラリッサの通行書類だった。領地の外へ旅するときに要る、身分と行き先を記したもの。結婚したとき、屋敷の書類と一緒に家令の金庫へ預けられて、そのままになっていた。
「君の旅費と、君の口座の控えは、君が持っているな」
「はい」
「母上への手紙も、君がいつ出してもいい。この書類も、君が持っていてくれ」
クラリッサは、書類入れを受け取った。中を確かめる。自分の名前。生まれた家の名。誰かに許しを求めなくても、これがあれば峠を越えられる。
もちろん、今越えれば身体のことがある。それは分かっていた。けれど、越えられないのと、越えないことを選ぶのとは違った。
「ありがとうございます」
そう言ってから、クラリッサは顔を上げた。
「でも、一つだけ、はっきりさせておきたいんです。身体のことへ協力しても、あの夜の話をなかったことにはしません」
ローレンスの目が、わずかに揺れた。けれど、彼は頷いた。
「分かっている。結婚のことは、改めて話そう。君が話せるときに」
「はい。そのときは、私の姿で」
昼に、聞いてほしい話があると言った。それは、たぶんまだ今日ではなかった。書類入れを膝に置いたまま、クラリッサは帳面の別の頁を開いた。今朝、受取所で書いた時間の集計と、襟の詰めが要る一着のこと。修繕の担当、未定。
この一着を直す糸は、また自分の木箱から出ることになる。その前の何十着も、そうだった。それがどこに、どう記されているのか、クラリッサは一度も見たことがなかった。
「次に、調べたいことがあります」
ローレンスが顔を上げた。
「会計の資料を、私にも見せてください」




